■ 板東33観音霊場第13番札所 金龍山浅草寺 ■

健康のために歩きましょう! 適切なウオーキングならば、目に入るものを見るゆとりがある。 定年退職後、妻とふらりと浅草に向かい、浅草界隈を観光した時、浅草寺で納経をした。 その時、受付で坂東札所霊場会の事務所が13番の浅草寺にあると知り、いつか板東三十三観音霊場を巡礼したいと納経帳を作った。


板東三十三観音霊場の納経帳を作ったが、まさかこの後、四国自転車遍路、秩父34観音霊場を自転車で巡礼するとは思わなかった。
浅草寺の御本尊、聖観世音菩薩の示現は、推古天皇の時代の628年とされ、大化元年、645年に観音堂が建立され、 平安朝初期の中興開基した慈覚大師が聖観世音菩薩を秘仏とし、御前立本尊観音像を造ったと伝わる。 その後、平氏、源氏、北条氏、徳川家などにより、浅草寺は往古より隆盛が続いた。

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■板東33観音霊場 第13番札所 聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺■
   宗 派: 聖観音宗総本山
   本 尊: 聖観世音菩薩
   開 基: 勝海上人(中興開山慈覚大師)
   創 建: 628年(推古天皇36年)
   真 言: おん あろりきゃ そわか
   御詠歌: ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草へ
        まいる身なれば


浅草寺参詣の入口、雷門前に到着。 門の中央に雷門と大書した赤い4mもの大提灯を下げ、右に風神像、左に雷神像を祀ってある。 二神を安置するので風雷神門の名前の方が正しいと思うが、いつの間にか雷門と呼ばれている。 そこで調べてみると雷門は神門で、風神も雷神も音を立てるから、神鳴門(かみなりもん)だという。 つまり雷門は風神も雷神も含む総称と云う事で一件落着!


雷門の最初の門は現在地より300mほど離れた駒形の地だった。 江戸時代に火事で類焼し、風神も雷神も被災し頭部だけ守られた。 二つの像は明治時代に補修されたが雷門は復興されなかった。 その後、昭和35年に松下電器の創業者松下幸之助氏が現在の雷門を寄進した。 雷門と大書した赤い4mの大提灯の下部に松下電器と記されている。

風神

天龍像
雷神

金龍像

昭和35年に復興した雷門に再び雷神と風神の像が安置され、文化財指定は受けていないが戻るべきところに戻った感じで、 両方の像は鎌倉時代の特徴が再現されている。 さらに浅草寺聖観世音菩薩示現1350年を記念して、平櫛田中が制作した天龍像と金龍像が門の内側に安置されている。

雷門から宝蔵門(仁王門)までの両側に並ぶ朱塗りの店舗が仲見世と呼ばれている。 発祥は元禄時代に浅草寺境内を清掃する賦役の代償として営業を認めたと云われる。 区域が浅草広小路と観音堂前出店との中間だったので仲見世という名がついた。

風雷神門(内側)

江戸情緒を残す看板
仲見世商店街

屋根に鬼瓦

江戸時代、仲見世の地は上野輪王寺宮の所領地であり、天保の改革でも潰されず、浅草海苔、雷おこし、紅梅焼、 錦絵、櫛、かんざし、舞扇、小間物などあらゆる浅草名物を商い、江戸随一の商店街で発展した。 それが日本の商店街発祥の地ともなり、関東大震災で焼失した後コンクリート造りになり、戦争の大空襲でも焼けず内部修復して今の賑わいがある。

まだ朝の早い時間帯の為、仲見世商店は開店直後でまだ開いていない所もある。 今の時間帯にゆっくり浅草寺境内を歴史散歩したい。 途中、左手に伝法院があるので撮影しようとしたら、入口前に撮影お断りの案内板が…。 結構厳しい規制があるものだと思いながら、それなら伝法院通りの方に引き返して、伝法院の通用門を撮影。 (撮るなというと余計撮りたくなる。)

少しずつ賑わいが…

これ以降撮影禁止(伝法院客殿の玄関門側)
左が伝法院前

伝法院 浅草寺本坊通用門

因みに伝法院は境内の半分が回遊式庭園と云われ、小堀遠州の作庭で心字池に島を設け京都桂離宮の様式美に模してあると案内書に記してある。 庭園には古墳時代の石棺が置かれ保存してあり、明治の神仏分離令時に浅草寺本堂裏手の熊谷稲荷神社を廃するため塚を崩した時に発見された。

宝蔵門(仁王門)前に戻り、観光客が少ないうちに正面から撮影できた。 徳川家から寄進された仁王門は国宝にも指定されたが戦災で焼失し、これを再興したのはホテルニューオータニの創業者大谷氏夫妻で、昭和39年に 檜材で制作し楼上に寺宝を奉安することになり門の名称が宝蔵門と呼ばれるようになる。

宝蔵門(仁王門)

久米平内堂
宝蔵門入口

平和地蔵尊

小舟町と書かれた大提灯や左右の吊灯籠は日本橋に発祥した魚河岸講の人々が奉納するしきたりです。 広い境内は浅草寺の長い歴史を誇るように数々のお堂や像、碑がある。 宝蔵門そばに久米平内堂がある。久米平内は剣豪で江戸時代に千人斬りの願をかけ、 多くの人々を殺したが、前非を悔いて仁王座禅の修業をしたと伝わる。
仲見世が途切れた所の宝蔵門右手に露座の二尊仏があり、慈悲を遍照する観音菩薩と知恵を遍照する勢至菩薩の金銅座像がある。 左手には浅草不動尊があり、地元の人が日課のようにお詣りしていた。

浅草不動尊

浅草不動尊
露座の二尊仏

浅草不動尊

たまたま五重塔付近で人の通りが無かったので角度を変えて撮影! 震災にも耐えた国宝の五重塔は戦災で焼け、昭和48年にコンクリート製で再建された。 耐震、耐火の為に瓦にアルミ合金の瓦が使われている。昔の五重塔は、境内で全貌を見る事ができたが 再建時スリランカから聖仏舎利を奉戴し塔内に安置したため、塔院造りになり五重塔の周りが浅草寺寺務所や霊牌殿などで囲まれている。


宝蔵門から浅草寺本堂を…

山形県村山市奉讃会が奉納長さ4.5mの大草鞋

浅草不動尊

常香爐

浅草寺本堂に到着! 本堂前にある常香爐は香を捧げ身を清めるが、香煙を病部にあてると快癒するとも云われる。 暫く眺めているとアジアの仏教徒は無論のこと、他宗徒らしい欧米人も煙を手ですくって浴びている。 本堂(観音堂)も、幾度も焼失と再興が繰り返されたが、 1649年三代将軍徳川家光公が再興して昭和をむかえると国宝に指定されたが戦災で命脈を絶たれてしまった。 昭和26年に現在の本堂が同じ規模で再建されたが基礎は鉄筋コンクリート造りになり、堂内は畳敷きの内陣とコンクリート敷きの外陣に分かれている。

水盤舎の沙竭羅龍王(さからりゅうおう)

左に天人之図
本堂正面口 志ん橋と書かれた大提灯

中央の龍之図

本堂で参拝し周囲を見渡すと納経所があった。 受付前で、坂東札所霊場会の事務所が13番の浅草寺にあると知り、発心した。 定年退職し何か目的を持ちたいと、納経帳を作った。

撮影について聞くと外陣は撮影OK。 そこで天井に3枚の絵が描かれているので撮影した。(中央が龍之図、左に天人之図、右に散華之図)

内陣の様子は、中央に御宮殿があり賽銭箱前の金網越しから拝することが出来ます。 内部は二間の畳敷で、奥の間に秘仏御本尊の聖観世音菩薩、その前面に御前立本尊観音像が安置してあり刺繍された幕がかけられている。


散華之図

本堂から境内の様子 境内の様子

雷門から境内をほぼ真直ぐに本堂で参拝した。 案内書には浅草寺の長い歴史を刻んだ所縁のものが境内に数多くあるので、じっくりと見学。

■浅草神社に参拝
浅草神社は浅草寺本堂の東にあり、境内1450坪を有する浅草寺とは低い石垣と植樹で区分けされている。 1649年に第三代将軍徳川家光公が再興し、三社大権現と称したが、明治の神仏分離令で浅草神社と改称した。 火災や震災、戦災を乗り越えて、昭和21年に国重文に指定。


神社は本殿、幣殿そして拝殿を渡り廊下で繋がり権現造りと呼ばれ、日光東照宮と同じ建築様式です。 江戸時代の建築がそのまま残り、家康尊像も祀ってあるので江戸の雰囲気は最高。 5月の三社祭には本社神輿に続き、氏子の神輿が加わり町を回る御祭りがあり、御祭りで見物客が溢れたその様子はメディアでも放送される。 神楽殿では祭礼時に東京都無形民族文化財の拍板舞が催され五穀豊穣を祈る。 鎌倉時代からの田楽の元祖だと教えて貰う。

神楽殿

拝殿

三社祭関係の蔵
神木 槐(えんじゅ)

拝殿、幣殿、本殿

浅草神社社務所

平成24年度三社祭は3月17、18日に堂上げ、堂下げ、舟渡御があり、例大祭は5月18、19、20日とおこなわれると記してある 神社社務所の横から裏手に回ると新門辰五郎と刻銘した石の鳥居があり被官稲荷神社がある。 普通ならば見逃してしまうが案内書のお蔭。 京都の伏見稲荷神社を勧請して創建され、被官は官位を授かる意味なので出世の御加護がある。 境内の端っこにあるが、現役の世代の方は一度はお詣りしたらいいと思う。 新門辰五郎は町火消しでも活躍し、幕府に忠義して江戸っ子気質を十分に発揮した人だった。

新門辰五郎と刻銘した石の鳥居


浅草神社の歴史散歩から浅草寺に再び戻る。 神社の鳥居を出て左手に古い門がある。 案内書で調べると二天門と呼ばれ、第二代将軍徳川秀忠公が日光東照宮に続き、浅草寺内に造営した東照宮への随身門であったという。

明治の神仏分離令で、左右の安置する像を変えて二天門と改称したが、震災、戦災を乗り越え、江戸時代の建築技法を見れる貴重な建築物です。 二天門も国重文です。

被官稲荷神社

被官稲荷神社
本堂全景

二天門(国要文)
本堂全景

弁天山にある松尾芭蕉の句碑

二天門を通り仲見世の後にある弁天山へ向かう。 ここには昭和58年に再興した弁天堂があり、御本尊が白髪姿の老女弁財天だと聞き大変珍しいと思う。 弁天堂の隣には鐘楼があり鐘楼は戦災で焼失したが再建され、梵鐘は元禄時代の徳川綱吉公の命により造られたもので現在は毎朝6時に鳴り響き、 大晦日の零時には寺僧の後に百八会のメンバーが撞いて新年を迎える。

弁天堂

仲見世通りと伝法院通りの交差路
鐘楼

再び境内へ入ると賑やか

弁天山から仲見世通りに向かうと丁度伝法院通りと交差路でした。 伝法院前を再び通って宝蔵門付近に向かう。少しずつ観光客が多くなってきた。 まだ見所があるので境内を歩くが少し疲れた。

平和の時計

五重塔前は平和の時計と鳩ポッポの歌碑があり、平和の象徴とされる鳩が集まる広場になっていた。 ここは童謡鳩ポッポの発祥の地です。 戦争の被災地であることを忘れてはならない。

迷子しらせ石標は戦災で復元されたが、安政の大地震で悲惨な最期を遂げた新吉原の遊女たちを供養するため遊郭の主が建立したと伝わる。 マスメディアが発達する以前の時代で生死の確認を求める人々の願いだったかも知れない。

童謡鳩ポッポ歌碑…作曲者滝廉太郎

東京都旧跡 迷子しらせ石標
浅草寺には新奥山、奥山と呼ばれる一帯に多くの石碑があるので境内を歩いてみる。
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