■ 上野恩賜公園、東叡山寛永寺、谷中界隈へ歴史散歩 ■

歴史散歩後半は大仏山、時の鐘、東照宮、輪王殿と散歩を続ける。 五條天神社から公園中央に戻り、時の鐘を探していると、上野大仏の看板が大きく目についた。 よく見ると上野大仏とパゴダとあり、小高い山には塔があり先に行ってみる。 休み明けの月曜日なら混雑もなく、 歴史散歩ができると思って、天気が良いので上野の山に来たが、これが完全な裏目に出た。


公園の整備工事は仕方ないにしても、予定した西洋美術館、科学博物館、国立博物館、旧東京音楽学校奏楽堂、 黒田記念館のすべてが月曜日は お・や・す・み!
大仏山 パコダ(仏塔)

案内書によると大仏山と呼ばれ、1631年に上野大仏が造られた。 初めは粘土と土で造られ、その後寛永寺創建にあたり唐銅製で造り直された。 しかし度重なる震災や火災で壊れ、戦時中に金属供出令によって壊れた胴体を国へ供出し、 破壊を免れた面部だけが寛永寺に残っていたので、大仏再建の願いを込めてパコダ(仏塔)が建立された。

異様に感じたが案内板を読んで納得! 時の鐘

この高台で撮影していると少し離れた所に木々に隠れた時の鐘を発見!撮影を中断して向かった。 時の鐘の塔は樹に遮られて思うように撮れない。反対に回ると精養軒の敷地内で塀が邪魔。 現在でも朝夕の6時と正午と合わせて計3回撞かれ、環境庁の日本音風景100選に選ばれている。 再び大仏山に登り撮影しながら開花した雪割草を探した。春を告げるこの花は新潟県の草花です。






大仏山から東照宮へ向かう途中に「お化け燈籠」に寄る。 お化けと云うから幽霊がでるとか、燈籠が何かに変身するのかと思ったら、単に巨大な燈籠の意味と知る。 異彩を放つ燈籠は、三代将軍家光が東照宮を改築する以前の1631年に造られ歴史も古く、高さ6.06m、傘石の周囲3.63mで、 京都南禅寺、名古屋熱田神宮と合わせて日本三大燈籠と呼ばれている。

お化け燈籠

明神大鳥居は国重文
燈籠は万一のことを考え柵に囲まれている

上野東照宮は藤堂高虎が自分の屋敷地内に幕府に願い出て勧請し1627年に完成させた。 その後、三代将軍徳川家光公が規模を拡大して現在の姿になった、とある。日光東照宮に見劣りのしない建築技術を結集した荘厳な造りです。 しかし改築なった1650年の家康の命日の法要には、家光の容態は死の床にあり名代として長男の家綱が出席、祝事のさなか世を去ったとある。





参道両側の石灯籠は計195基

上野東照宮には家康公の他に八代吉宗公、十五代慶喜公が祀ってあり、参道両側に並ぶ青銅灯籠や石灯籠は全国の諸大名が寄進した。 唐門前の青銅灯籠は尾張、紀州、水戸の御三家が寄進した計6基あり、藤堂隆虎が奉納した青銅灯籠は1627年の銘があり、 明治になり侠客新門辰五郎が奉納した水屋があり、歴史が身近に感じられる。

寛永寺の五重塔(国重文)



神楽殿

参道の右手に五重塔が見えるが、寛永寺のもので、現在は都の所管で動物園の敷地内です。 1631年に幕臣土井利勝が寛永寺に寄進したが、火事で焼失。 1639年に再建され高さ約36m、朱色塗りで1階の屋根には12支の彫刻がある。 都内では珍しい江戸時代の五重塔です。当然、国重文です。 そして神楽殿は1874年深川木場組合が奉献したもので屋根の勾配の美しさが引き立つ。 毎年、お花見の時期に御神楽の奉納が披露される。

侠客新門辰五郎が奉納した水屋 水鉢

広島に落とされた原子爆弾で家々が炎に包まれた。 その種火を現在まで上野東照宮にて保存してあり、その事業の碑が表参道に建立されている。 核兵器をなくし 永遠に平和を誓う 長崎 広島の火(二十世紀からの伝言碑)

核兵器をなくし 永遠に平和を誓う
長崎 広島の火(二十世紀からの伝言碑)
青銅灯籠は国重文

社殿は唐門、透塀、拝殿、幣殿、本殿からなる権現造りです。 権現造りとは拝殿、幣殿、本殿を連続させた建築様式をいう。もちろん装飾や絵は左甚五郎、狩野派の技術が使われている。 残念ながら現在は上野恩賜公園再生整備事業で歴史資源エリアの整備事業と合わせて、一番肝心の所が修復中でご覧のようにシート絵になっていた。 また次の機会に訪問したいと思った。 「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し、いそぐべからず。…」家康公の遺訓を思い出した。



参道両側の青銅灯籠は国重文で計50基

境内にはぼたん苑があり、1、2月の冬牡丹は終わったが、4、5月にも春牡丹祭りがある。入園料は600円です。 閉園していた庭園を柵の間から撮影した。きっと春牡丹祭りも美しい花を見る事ができる。






苑内の開花した梅と燈籠を重ねた

東照宮から動物園正門前に向かうと樹々に囲まれたエリアにグラント将軍植樹碑がある。 上野公園で明治天皇行幸のもとに開催の歓迎会にて植樹をされた記念碑です。 増上寺にも植樹した記念碑があった。

その近くに石堤で囲まれ、明治維新の会津征討の総督、日本赤十字社にも貢献した小松宮彰仁親王の騎馬像がある。 輪王寺第13世門跡で寛永寺第15代山主の公現法親王は小松宮の弟宮にあたる。 上野公園の中心的な位置にある噴水池付近は白いシートが張られ、再生整備工事中です。 ここは文化の森の中心とした広場、樹木、噴水が新しく生まれ変わり、休憩や食事ができるレストランもできる。

グラント将軍植樹碑 小松宮親王像

上野公園全域が東叡山寛永寺の堂宇があった。 現在の噴水広場は根本中堂のあった所、国立博物館は寛永寺本坊跡であり、博物館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りという。

歴史散歩は寛永寺輪王殿に向かう。 旧本坊表門(国重文)を正門とする輪王殿は多目的会館として建てられ、その旧本坊表門を楽しみにしたが修復工事中。 旧本坊表門は新政府軍と彰義隊との戦いで、本坊は砲撃され焼失したがその表門は焼失を免れた。 その後、帝国博物館の門として使われたが今は上野輪王寺に戻された。 その色から黒門と呼ばれ門扉には戦いの際に銃撃を受けた弾痕が今も残されている。 隣の寛永寺開山堂(両大師)に向かう。

開山堂(両大師)

阿弥陀堂
手水鉢と巨大な銅燈籠(元上野大猷院霊廟)

右に虚空蔵菩薩坐像、中央に阿弥陀如来像、左に地蔵菩薩立像が配置

東叡山寛永寺開山堂は東叡山を開山した慈眼大師(天海大僧正)をお祀りしている堂で、 天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源大僧正もお祀りしているところから、両大師とも呼ばれている。 境内に入るとすぐ右手に阿弥陀堂が…。 堂宇前でお参りして中を覗くと3尊像が収められているが、覗いてまず目に飛び込んでくるのは、中央に本尊阿弥陀如来像、 その左右にドド〜ンと自己主張している大きな2像が地蔵菩薩立像と虚空蔵菩薩坐像の古式ゆかしいコンビで、 一応理に適った配置だが、堂内の空間をこの2像で占有して、肝心の中央の阿弥陀如来像は2像に挟まれているという感じでした。

鐘楼

梵鐘


鐘楼に架かる梵鐘は1651年に製作されたもの、本堂前の参道左右の銅燈籠は上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものです。 本堂は度重なる火災で焼失したが平成5年に再建された。 本堂前には沈丁花の花が咲き乱れ、隣には古代蓮の池が造られ6月の開花が楽しみです。

平成5年に再建された開山堂

大賀蓮(古代蓮)
沈丁花

御車返しの桜と寝釈迦石
御車返しの桜…1本の樹に一重と八重の桜が同時に咲く。 後水尾天皇が京の寺で花見を終えた帰路、花のあまりの美しさに牛車を返して再びご覧になったことからこの名前があります。(案内板から)
旧因州池田屋敷表門(黒門)

旧東京音楽学校奏楽堂

開山堂(両大師)から芸大の方向に向かうと、その一角に旧因州池田屋敷表門(黒門)がある。 旧因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築された。 その後東宮御所として使われ、さらに高松宮家に引き継がれる。 昭和29年現在の地に移築して修理を加えた。 創建年代がわからないが江戸末期のもので屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風造の番所が備わり、大名屋敷表門として格式の高い造りです。 (国重文)…案内板より

奏楽堂正門

旧東京音楽学校奏楽堂は、明治23年に創建し、日本最古の木造の洋式音楽ホール(国重文)です。 コンサートなどがあり、公開日は火、木、日曜日と案内がある。 公園ベンチでコンビニで買ったお弁当とサラダを食して約15分の昼食と喫煙タイム。

休憩後、旧東京音楽学校奏楽堂、東京芸術大学音楽学部、黒田記念館、京成電鉄の旧博物館動物園駅舎のある交差点を、 雑踏から離れ、国立博物館に沿ってゆくと現在の寛永寺本堂(根本中堂)がある。 清水観音堂、弁天堂などの賑わいに比べて、周辺は人が少ない。 現在の堂は、寛永寺の子院、大慈院のあった敷地に、明治12年に川越喜多院の本地堂を移築し根本中堂とした。 内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像が安置され堂内は非公開です。

根本中堂

余談ですが群馬の鬼押出しの厄除け観音、浅間山観音堂は1783年の浅間山大噴火の犠牲者供養の為、昭和33年に寛永寺別院として建立された。 (2010年8月群馬県鬼押し出し園の旅)隣に寛永寺の幼稚園があり、帰りの時間なのか境内を子供達が走り回っていた。

鐘楼

鐘楼の近くに小さな祠があり、その中に一体の石像が安置されていた。 了翁禅師という黄檗宗(禅宗)の高僧の石像です。 了翁禅師は江戸の大火の際に私財を投じ被災者を救済し、また寛永寺に経蔵を建てて多数の経典を収めたなどの功績により、 輪王寺宮より勧学寮権大僧都法印に任じられた。

了翁禅師という黄檗宗(禅宗)の高僧像

浄名院
嘉永4年の東都下谷絵図

谷中界隈
東叡山寛永寺から途中で寛永寺の支院、浄名院に寄り谷中界隈に向かう。 ここでデジカメの調子が悪いと思ったらバッテリーが無くなっていた。 そして予備のデジカメを使う。
徳川家墓所…もろに逆光!

徳川慶喜公墓所

ここから徳川家最後の第15代将軍慶喜公のお墓を探す。 最初に見つけたのが徳川家墓所で、案内板もなく再度、周囲を回り辿り着いた。

お墓は円墳の形をした神式の墓でした。歴代将軍のお墓は仏式なのに、なぜ慶喜公のお墓は神式なのだろう? それは慶喜公の出身が水戸徳川家で伝統的に尊皇思想の方で、朝廷に恭順の意を示すために、仏式ではなく神式にするよう遺言したそうです。


多くの著名人が眠る谷中墓地は、人々の散歩コースや歴史マニアの訪問地になっていた。 デジカメ抱えた人だけでなく、まるまる太ったネコやカラスも目立ち墓地なのに賑やかです。 桜の季節になると多くの人々が訪れる。

小公園に… 天王寺五重塔跡地

15時を過ぎると西日になり、この時期は肌寒くなった。 通りに出てJR日暮里駅に向かうと右手に小公園があった。 公園の住人と思われる人がベンチで寝転がっていた。 石塔を見つけ確認すると柵で囲まれた五重塔跡地を見つけた。 案内板と共に当時撮影した火災前と炎上中、焼失後の3枚の写真があり、そのうち2枚を撮影。

天王寺五重塔は1644年に建立されたが一度焼失し、1791年に再建され関東で一番高い塔でした。 震災や戦災に遭わず放火によって焼失したのは大変残念に思う。 図面や塔の礎石から舎利塔や経筒が発見され再建への道は残っている。

天王寺 本堂
最後は天王寺です。街中に溶け込んだ大きなお寺ではないが境内も綺麗に清掃された落ち着きを感じるお寺でした。 開山した時は日蓮宗だったが江戸中期に天台宗になり数奇な運命で現在に至る。
毘沙門堂 釈迦如来坐像
天王寺から狭い坂を下っていくと高台から眼下にJR日暮里駅が見える。 石段をおりて跨線橋で一休み。 上野界隈の歴訪は機会を作って再度訪問することに…。
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