■ 九度山真田庵(善名称院)の歴史 ■

四国自転車遍路で結願し、2ヶ月の期間を空けて高野山へお礼参りして満願成就しました。 九度山の真田庵を見学して、今回の旅紀行は一段落し、東京へ帰路につくのに経路を考えると亀山JCT、豊田JCTの混雑を夕方時と予想。

それまでの時間を有効利用するのに帰路の途中で観光したいと思った。
これまでの経験から名古屋通過を午後4時と決めて、九度山真田庵(善名称院)に立ち寄りすることにした。


九度山真田庵(善名称院)の歴史
真田庵の正式名は善名称院と呼ばれ、和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院です。 真田昌幸、信繁(幸村)の隠棲時代の屋敷跡で、県の史跡に指定されている。 中央に城郭風の本堂の八棟造が建立されていた。 真田昌幸、信繁(幸村)父子は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、女人禁制の高野山の蓮華定院に配流の身となったが、 妻を連れていたために九度山に移され蟄居生活を送った。

県道370号線

全体の敷地は土塀で囲まれている
案内板

この先に長屋門が…

街道沿いに真田庵専用の無料町営駐車場がある。 近所に訪れる宅急便の車両も出入りし、トイレもあるから観光の車両だけでなくタクシーなども利用していた。 ここから真田庵まで歩く。ガソリンスタンドの脇道から幅1m位の小道を入って行くと真田庵の案内板があった。






土塀に囲まれた真田庵が見えてきた。 土塀が長く続き、十字路を左に曲がり土塀に沿って歩くと門がある。 入口は低いが、門の中に入ると、天井に鐘楼がある。 鐘楼を中心に真田庵の由緒書、創建した大安上人、NHK大河ドラマ「真田太平記」のポスターなどが飾ってあり、 厳粛なイメージでなく、何か親しみを感じるお寺です。

鐘楼…鐘撞き棒が無い!

土砂堂(弥勒菩薩)
反対側の正門

開山堂(大安上人の廟)

六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊の紋章が入っている。 大安上人は朝廷から菊の紋章の使用を許され、菊と六文銭の二つの紋が使われている。 真田昌幸は、この九度山町にて亡くなり、その後、1741年に九度山出身の大安上人が真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりという。

本堂には善名称院の額がある

本堂の中

雷封じの井
八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂

境内(住職が手入れしてる植木)

真田地主大権現全景

真田地主大権現…
真田家の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀している。 お寺で昌幸の霊がたびたび見られ、大安上人は昌幸の霊を慰めるため、この地の大権現の神様として祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、 この地を守ると約束したと伝わる。 それがこの真田地主大権現です。 その後、稲荷大明神、金比羅大権現、天満宮、住吉大社も境内に建立された。

真田地主大権現

大権現の左手に真田昌幸、信繁(幸村)の墓
真田地主大権現

資料館に真田昌幸、信繁(幸村)の九度山での生活と、信繁が愛用したと伝えられる槍先や鎧兜などの武具や書状、肖像画や、 当時の真田家の生活を支えた真田紐や高野紙製造用具なども展示されていた。
真田家臣一族の墓

門扉の六文銭
資料館へ

もう一つの門

真田の抜け穴については、善名称院の約200m東に、 昔から地元の人々に「真田の抜け穴」と伝わる穴があり、そこから善名称院までを真田氏が造った抜け穴と信じられてきた。 しかし昭和28年(1953年)に行われた発掘調査で、古墳時代に造られた横穴式石室を持つ円墳であることが判明。

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