■ 紀伊山地高野山霊場と参詣道 ■

四国遍路と云えば八十八霊場の札所をお参りすることを云いますが、結願するとお礼参りして満願成就するとあります。  お礼参りは厳密な定義があるわけでなく、1200年も続く歴史の中で、その時代時代に合った作法がおこなわれてきたと思う。
何が正しいかは別として、四国遍路には多様性があってしかるべきと思っています。  特に、近年は遍路の目的も手段も多様化してるから、遍路する人々の心の思いの数だけ満願成就への思いがある。
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◆…高野山奥之院(世界遺産)の供養塔 …◆     

奥之院の供養塔の総数は二十万基とも三十万基とも云われている。  何故、数が確定しないかというと地中に無数の小さな石塔が埋っていているのもあるという。  掘り返せばいくらでも出てくる状態が高野山にある。  いろいろな願いのこもった小さな石塔も数多くある状態が長い歴史の中にある。  満願成就を終えたので頌徳殿で大休憩後、奥之院を歩いてみました。

 





 



玉川橋

長い歴史の中、供養のため石塔を背負い高野山に登った多くの人々の願いがある。  多くは五輪搭の形をしているが、その小ささに後世の人々がよだれ掛けをかけたものも多くあり、お地蔵さんと思われている石塔も数多くある。   歴史に名を残した人も、無名の人も、ここでは同じように安らぐ魂として存在しているのではないか。 高野山はそのすべてを受け入れている。  玉川橋を渡った所で、この道は中の橋駐車場に向かっていることが観光グループの案内に教えて貰い、もと来た道に戻ります。

 



奥之院の参詣道に戻ります。

パンフレットの案内図を見ながら一の橋まで歩いてみます。
浅野内匠頭と赤穂四十七士供養塔


月曜日は参詣者が少ないようです。

 
肥前島原 松平家供養塔


なだらかな坂(かくばん坂)

奥の院参詣道の中の橋付近から、覚鑁堂までの間が坂道となっていて、この坂を「かくばん坂」と呼ばれている。  この坂で転ぶと寿命が3年以内であるという伝説もある。  参道を歩き始めて、時間に追われ、歴史上の人物の供養塔を見るだけに気をとらわれていると 何か大切なものを見逃すことがあるんではないかと思った。  心を空白にして、奥之院の空気の中に身を置き、何かを感じようと気を引き締めて歩きます。

空海が構想した高野山、寺院そのものが密教構想によってつくられたということはインドや唐にも存在しないことだった。  これは空海が師恵果から伝法阿闍梨位の灌頂をうけ真言密教第八祖として密教の体系を最終的に純化させたことを意味する。  そして知られていないのが日本の書の開祖といわれている。

 
なだらかな坂(かくばん坂)




 



安芸 浅野家供養塔

 
汗かき地蔵堂


姿見の井戸

汗かき地蔵堂…
地蔵堂の中に、汗かき地蔵が祀られている。  汗かき地蔵は、世の人々の苦しみを身代わりになり一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。

姿見の井戸…
汗かき地蔵堂の右横奥に隠れるようにあります。 姿見の井という名前は江戸時代についたようで、本来は薬井と云うそうです。 朝廷から空海に法印大和尚位の位が贈られた時の勅使が病になり辞退する状況になった時、 霊夢に弘法大師が現れ、霊水の場所を教えてくれた。 それにより病が治り勅使の大役をはたす事ができ、薬井という名が付いたそうです。  ところが、江戸時代になり、この井戸をのぞき、自分の姿が水に映らなければ3年以内の命であるという説の方が人気?を集め、現在の姿見の井の名に変わったようです。

 
中の橋


伊勢桑名城主 本多忠勝供養塔

中の橋…
一の橋と御廟橋の中間にあるので中の橋と云われてます。  正式には手水橋と云われ、平安時代の頃は、此処で身を清めていた。  ここを流れる川は、昔から金の川と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の川、つまり三途の川を表しているそうで、 この橋を渡ると、これから先は、死の世界に入ると云う意味になるそうです。  高野山が開山した頃は中の橋が奥之院の入口だったようで、その後供養地の広がりにともなって現在に至るようです。

 
明智光秀供養塔


石田三成供養塔

 
島津初代家久、二代光久、綱久供養塔


母子像

 
伊達正宗供養塔


周防岩国 吉川家供養塔

 
周防岩国 吉川家供養塔


紀州徳川家
二代光貞 三代綱教 四代頼職 六代宗直供養塔

供養塔の中で鳥居のあるものが多いが、際立つのは徳川家の供養塔でした。 どの供養塔も鳥居の入口に石扉が必ずあります。  そして武田信玄公の供養塔の前に腰掛け石があります。  昔は息処石と書いて腰掛け石と読んだそうです。 弘法大師が休憩にと腰を掛けた石であるという云い伝えがあります。  腰掛け石を六角形の石枠で保護され、隣に石碑がある。

 
弘法大師の腰かけ石


腰掛け石を上から覗いた。

 
武田信玄 勝頼供養塔


紀州徳川家 七代宗将供養塔

参詣道は大木に囲まれ、陽が射しこむと撮影には適さない。  さらに苔むした石塔や山内地特有の蚊が多く、私の身体は大分美味しいようで蚊に散々食われた。  防虫スプレーを車に残したのを後悔しました。  石畳道から外れて山内地の奥へ登る小道があり、そこにも多くの供養塔があるがとてもじゃないが、蚊に食われてまで行きたくない!

 
紀州初代藩主 徳川順宣供養塔


高野山町石道

 



山口毛利家供養塔

 
司馬遼太郎文学碑


石畳道が広くなりもうすぐ一の橋です。

司馬遼太郎文学碑…

高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
山上は、ふしぎなほどに平坦である。
そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。  枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。  さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。
その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなづき、四季四時の虚空がひどく大きい。  大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。      …碑文…

司馬遼太郎の作品「空海の風景」が、NHKスペシャル「空海の風景」で2002年1月に放送されました。  その後NHK取材班がその経過を記した「空海の風景を旅する」という本を出版したので読んでみました。  司馬遼太郎という作家の空海を知るうえで鋭い視点でとらえている。  その作品をNHK取材陣が総力を挙げて日本各地、中国にまで取材に取り組み、司馬遼太郎の足跡を追っている。  初めは何故ここに司馬遼太郎の文学碑があるのか疑問に思ったが、自宅に戻ってWEB作成しながら集めた資料で学んだことは私にとってありがたい知識になった。 

 



奥州仙台伊達家供養塔



 
一の橋上から見る御殿川


海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔

海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔 ああ同期の桜…
第二次世界大戦の戦局が不利となり国家存亡の時期に、大学、高等専門学校の学徒が徴兵され陸海軍に入隊した。  その中、海軍航空関係の第十四期飛行予備学生が互いに貴様と俺とは同期の桜と歌い、散る桜、残る桜も散る桜と語り、 四百余名の若者が、訓練中の殉職、西太平洋各地において戦死、もしくは戦傷病死、はたまた神風特別攻撃隊として散っていった。  昨日、寺院参りした大圓院の門前に、ああ同期の桜の石柱があったのを思い出した。

 
奥之院一の橋


高野山町石道

奥之院一の橋…
この橋は、弘法大師御廟に向かう参詣道入口で最初が一の橋と云います。  正式には大渡橋と云われ、昔からお大師様がここまで送り迎えしてくれると云い伝えられ、今でもこの橋の前で合掌一礼して参詣する。

奥之院の見学を一の橋まで来て、一の橋観光案内所で休憩します。 ここの駐車場は有料でした。  喫煙して冷たい飲料で大休憩しました。  妻も歩き疲れたのかタイミング良い休憩となったようです。  日陰のベンチで腰かけると爽やかな風が吹き抜けていく。  暫く休んでから再び参詣道に戻ります。 参詣道が二手に分かれていたので、もう一方を見学し、見落とした処もあるかもしれないので、参詣道を通って中の橋駐車場に戻る予定です。

 
もう一方の参詣道


関東大震災供養塔

 
五族の墓


六地蔵尊灯籠塔

五族の墓…
日本、漢、蒙古、満州、朝鮮民族の五族で、 五族協和を旗印に戦った満州国軍関係者のお墓です。  現在の中国東北部に日本が建国した国家は満州国と呼ばれ、ここに日本、漢、満州、蒙古、朝鮮の5民族で構成された満州国軍が創設された。  当初の役割は、満州国内の治安維持だったが、南方戦線の悪化とともに日本軍が南方に送られると、五族協和の理想と現実は崩壊していった。

五族の墓を通り、その石畳の先に、六地蔵尊灯籠塔という建物がある。  灯籠塔の建設発起人は野村晃円という尼僧で、弘法大師の夢告げを受けて発願したといいます。  尼僧は全国を行脚、寄進を募って建設費用を調達し、完成は昭和39年で、高野山が開かれて1150年、さらに明治から数えて100年を記念しての建物となった。

 
信州松本 水野家供養塔


源氏の祖 多田満仲供養塔

源氏の祖 多田満仲供養塔…
平安時代中期の武将で清和源氏を名乗り、当初は都で活動する武官貴族であった。  長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となる。

上杉謙信廟(世界遺産)…
奥之院参道の中の橋の手前に世界遺産の上杉謙信廟がありました。 ここは上杉謙信、景勝の廟です。  謙信は天正2年(1574年)45歳で上洛した時、高野山に行っている。 建物の建立年代は、江戸初期の建立と推測され、 規模は小さいが霊屋としては古く、内部は格天井を張り、須弥壇上に二基の石碑を納めている。  昭和41年、解体修理が施され、それまで銅板葺であった屋根を檜皮葺に復旧した。

 
奥州南部家供養塔


上杉謙信廟(世界遺産)…無量光院

 
上州館林 榊原康政供養塔


阿波徳島 蜂須賀家供養塔

密厳堂…
密厳堂真言宗中興の祖、興教大師覚鑁の尊像を安置する密厳堂。  智積院第七世運敞僧正が末寺、学侶に寄付を募り、1667年(寛文7年)に建立した。   正面に1672年(寛文12年)運敞僧正自筆の密厳堂の額が掲げられている。

 



密厳堂入口

 
密厳堂 真言宗中興の祖


高麗陣敵味方戦死者供養碑

高麗陣敵味方戦死者供養碑…
1599年(慶長4年)鹿児島藩主 島津義弘、忠恒の父子によって、 朝鮮役における敵味方戦死者の霊を慰めるため、高野山奥之院の旧鹿児島藩主島津家の域に建立されている。

 
豊後岡 中川家供養塔


奥之院参道ガイドマップ

 
五輪塔の説明



五輪塔は主に供養塔、墓塔として使われる仏塔の一種で五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。  五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、 日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く使われるようになる。
中の橋駐車場に戻り、休憩をと考えたら時間もお昼近くになっていたので、近くのレストランへ昼食に向かいました。  今日の予定はあと一の橋から密厳院、苅萱堂までの間のお寺巡りと金剛三昧院だけです。  昨日に比べて時間的にはのんびり見学できます。  夏の暑さであまりハードなスケジュールはせず、レストランで大休憩しました。  昨日はかつ丼定食だったから今日は親子丼定食を注文してエアコンの効いたレストランで昼食。  窓越しに見える駐車場には車両が交互に出入りしています。 昨日より眺めが良いので気分爽快です。



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