■ 紀伊山地高野山霊場と参詣道 ■

四国遍路と云えば八十八霊場の札所をお参りすることを云いますが、結願するとお礼参りして満願成就するとあります。  お礼参りは厳密な定義があるわけでなく、1200年も続く歴史の中で、その時代時代に合った作法がおこなわれてきたと思う。
何が正しいかは別として、四国遍路には多様性があってしかるべきと思っています。  特に、近年は遍路の目的も手段も多様化してるから、遍路する人々の心の思いの数だけ満願成就への思いがある。
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◆…高野山霊宝館へ (金剛峯寺駐車場)…◆     

今日の天気は厄介で、朝方は晴れていたが、曇りがちになり日差しはあるが時々小雨が降る始末で、参詣には問題ないが、撮影にはあまり良くない天気でした。  予定した金剛峯寺前の無料駐車場は8時頃に到着してすぐ満車になりました。 参詣の準備をしているうちにみるみる車両が到着しました。  今日は一日ここに車を置いて山内を歩いてみます。

7時56分
参詣に準備しているうちに満車!


外国人の団体も早いです。

 
高野霊木の家


壇上伽藍の中門再建工事の作業館

金剛峯寺駐車場に隣接して壇上伽藍中門再建工事作業館と高野霊木の家がある。  高野山には四国巡礼の旅の後に高野山へお礼参りする団体や個々の車両、 そして外国人を含めて、高野山へ観光に来るグループや家族連れ、カップルが半々ぐらいです。

壇上伽藍の中門再建工事の作業館の様子

壇上伽藍の中門再建工事の作業館内に入りました。 壇上伽藍の歴史、中門の歴史を紹介するコーナーは工事の様子が紹介され着々と進んでいます。

高野山開創1200年の垂れ幕
三鈷杵とは…
伽藍、御影堂のそばにある松の木で、「三鈷の松」と呼ばれている。  通常、松の葉は2本だが、この松は3本ある。 三鈷杵の先(鈷部)が中鈷、脇鈷と3つに分かれているので、その形と合わせて 三鈷の松とも呼ばれる。
伝説に弘法大師が唐の国へ渡り、大同元年(806年)現在の寧波の港から帰国の際、師の恵果和尚から贈られた密教法具の一種である三鈷杵を東の空に向けて、 受け継いだ密教を広めるのに相応しい地へ届くようにと投げ、帰国後、その三鈷杵を探し求めていると、高野山にあると分かったという。  それによって高野山の地が真言密教の道場として開かれるようになり、この松を「三鈷の松」と呼ぶことになったという。
国際都市長安はシルクロードの東の起点として大いに栄えていた。  唐の時代、遣唐使の一行に私度僧だった空海が何故メンバーに入れたかはNHKスペシャル「空海の風景を旅する」を見てのとおりであるが、 当時世界一の文化都市で空海は才能を発揮した。

 
三鈷杵


飛行三鈷杵の写真

 
作業館の様子


霊宝館に向かいます。


小坊主のかわいいベンチ








明泉院増福院入口

 
明泉院増福院境内


大師堂

 
宿坊


勧学院





勧学院





霊宝館に向かう途中で小坊主のかわいいベンチがある。  その向かいに明泉院増福院があるので寄ってみる。  勧学院から明泉院増福院に続く塀も落ち着いた景観でした。  高野山霊宝館に到着して日陰に入ると涼しい。  高野山霊宝館は、高野山内の貴重な文化遺産を保存、展覧する施設として大正10年(1921年)に寄付と金剛峯寺によって開設された。  京都の平等院の形で計画されたが右側だけ建てられて終了し、その後左側には大宝蔵館が建築された。  本館は登録有形文化財として指定されています。  霊宝館入口では団体が来てないのか人の通りは少ないです。

霊宝館入口






 
霊宝館正面


霊宝館右に伸びる館

 
左側に大宝蔵館


ここから先は撮影禁止区域

平清盛時代の高野山が開催されています。 特に注目は清盛の血を混ぜて作られた血曼荼羅です。  胎蔵界曼荼羅の中心、大日如来の宝冠部分に清盛の血を混ぜて描いたと伝わる。  その他にこの時代の仏像や文献を見る事ができるので、早速入館しました。  館内は撮影禁止の案内がアチコチにあり、ビデオカメラも動作している様子です。  発見した場合は直ちにカメラ没収で、直ちに映像データの消去をすると記されています。
館内は空調も効いて、柔らかい照明の中見学しました。  また、建物がコンクリート造りと思っていたら木造建物と云うところにも驚きました。  静かな館内を妻と共に、多くの文化遺産を目の前にして、1200年前の文化遺産に感動を貰い、その驚異に圧倒されました。

4枚の映像は霊宝館パンフレットから掲載



    

遣唐使で派遣された時、空海は無名の私度僧、 対する最澄は桓武天皇から朝廷の庇護のもと盤石の地位を築いて、 比叡山に戒壇を設けることを認め、国家による官僧認定枠を最澄にも与えた。  さらに正当な密教指導者として朝廷は認めたが、唐での密教の灌頂は空海だった。  その空海が帰国時に多くの経典、経典注釈書、法具、仏画を持ち帰り、真言密教第八祖として帰国した。  空海が脚光を浴びたのは帰国以降で、思慮ある考えを多くの人々に説き、宗教指導者として認められるようになった。

仏像や血曼荼羅、文献に時の経つのも忘れそうになり、気が付いたら1時間以上いた。


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