■ 紀伊山地高野山霊場と参詣道 ■
四国遍路と云えば、八十八霊場の札所をお参りすることを云うが、結願するとお礼参りして満願成就するとあります。 お礼参りは厳密な定義があるわけでなく1200年も続く歴史の中でその時代時代に合った作法がおこなわれてきた。
何が正しいかは別として、四国遍路には多様性があってしかるべきと思う。 特に近年は遍路の目的も手段も多様化してるから、遍路する人々の心の思いの数だけ満願成就への思いがある。

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■ 高野山壇上伽藍(世界遺産) ■
霊宝館の反対側に大きく広がる壇上伽藍があります。 霊宝館の興奮も醒めないうちに壇上伽藍の中門に引き寄せられた。 中門は再建工事で、全体がシートで覆われている。 そのシートに中門の写真が貼ってあり、これを撮影して中門の脇道から入った。

■ 壇上伽藍(壇場伽藍) ■
弘法大師が高野山を開創した時、最初に整備を着手した場所で、 弘法大師が実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔、堂宇の建立に心血を注いだ。 その壇上伽藍は胎蔵曼荼羅の世界を表していると云う。

中門完成図


■ 金堂(講堂) ■
空海は嵯峨天皇から811年(弘仁2年)に東大寺別当となる。 816年(弘仁7年)紀伊国、伊都郡高野山を修禅の道場として勅許され、金堂は講堂と称し、819年(弘仁10年)に建立されたが、 その後、嵯峨天皇御願の御堂として新たに完成した。 しかし度重なる災禍で、焼失しては、その都度、再建され現在にいたる。

天候が曇がちで満足する映像が撮れない。 現在の金堂は昭和7年に完成。 鉄筋コンクリート造りの木造仕上げになっている。 本尊は薬師如来像。 823年(弘仁14年)には、京都の東寺を与えられ、密教の根本道場とする。 まさに最澄は桓武天皇に庇護され、空海は嵯峨天皇に庇護され、日本の仏教界の発展に寄与した。

  金堂(講堂)




■ 登天の松と杓子の芝 ■
金堂の西側に登天の松(とうてんのまつ)と杓子の芝(しゃくしのしば)がある。 高野山霊場の初期にあった明王院の僧、如法上人が1149年(久安5年)に、この松から弥勒菩薩の浄土へ昇天されたという。 その時、斎食の用意をしていた弟子の小如法は師匠が登天するのを見て、後を追って昇天されたという。 その時小如法の手には杓子が握られ、途中、この杓子が芝の上に落ちてきたという。 明王院は高野山に於ける最も初期の寺院であったと云われ、日本三不動のひとつとして知られる赤不動明王を本尊としている。

登天の松と杓子の芝

■ 六角経堂 ■
金堂から左手に山王院があり、その入口そばに六角経堂がある。 鳥羽天皇の皇后であった美福門院が天皇の菩提を祈るため、金泥で書写した一切経を奉納。 それを納めるために建立されたのが六角経蔵です。

六角経堂 山王院の鳥居

■ 山王院 ■
六角経堂横から鳥居をくぐると、御社、山王院の域内になり、建物は派手さは無いが、周囲が樹林に囲まれ厳正な雰囲気を醸し出している。 山王院は御社の拝殿として建立、両側面に向拝が付き、入母屋造りの建物です。 山王院は地主の神を山王として礼拝する所の意味がある。 建物は1594年(文禄3年)に再建された。



山王院


山王院

高野山が開山したのが816年(弘仁7年)だから、伽藍の整備でも比較的早い時期に完成した。 伽藍の中に神社があるという、この地主神を祀る御社、山王院を見学します。

■ 御社 ■
弘法大師が819年(弘仁10年)、山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とした。 弘法大師が密教を広めるため神仏習合思想を広めるために地元の神々によって、教えが尊ばれる思想を広めた。 社殿は高い位置にあり塀で囲われ、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子、百二十伴神が祀られている。 現在の社殿は1594年(文禄3年)の再建で、国重文です。

山王院の奥へ向かう

御社
御社と山王院の説明板

御社

■ 西塔(多宝塔) ■
伽藍の西北隅に位置する多宝塔が西塔と呼ばれている。 御社山王院からその建物を見ることができる。 ここから見える西塔は、両側に大木があり厳粛な佇まいを見せてくれる。 根本大塔の外観が朱塗りなのに対して、西塔は白木のままで、華やかさはないが、規模的には大塔につぐ大きな建造物で1834年(天保5年)に再建された。

西塔(多宝塔)

西塔が気に入り、いろいろな角度から撮影しているうちに、妻とはぐれてしまい何処へ行ったのか… 妻もEOSを持ち、時々、私の見逃した思わぬ映像をくれる

西塔(多宝塔)

鐘楼堂


鐘楼堂

北側から見た山王院

 ☆彡 壇上伽藍 金堂(講堂)、六角経堂、御社山王院、西塔(多宝塔)の拡大映像 ☆彡

御社、山王院本殿がある所は、壇上伽藍の中でも一段高い処にあり、昔はこの付近を御社山と呼んでいたという。 各堂宇の参拝する順番は、高野山に伝わる両壇遶堂次第があるそうです。 その順番で参拝しているが、途中で逆差しの藤、智泉廟を見逃してしまった。

山王院と鐘楼堂から見た境内 西塔(多宝塔)から見た境内

■ 孔雀堂 ■
西塔から根本大塔付近に向かうと樹林は少なくなり境内が拓けてきた。 こちらにも多くの歴史ある孔雀堂、准胝堂、御影堂が並ぶ。 孔雀堂の創建由来は鎌倉時代の初期に、近畿地方の干ばつなどの自然現象を解消するため、 孔雀経法がおこなわれ、解決に尽力したことで高野山に孔雀堂を建立することになった。 同時に仏師であった快慶に依頼があり、本尊孔雀明王像が制作され祀られている。

孔雀堂

准胝堂
孔雀堂

准胝堂

■ 准胝(じゅんてい)堂 ■
准胝堂は御影堂の西隣にあり、准胝観音をお祀りしている。 本尊となる准胝観音は高野山で僧侶になるための儀式である「出家得度」の本尊として祀られている。

准胝堂の屋根飾り 御影堂

■ 御影堂 ■
弘法大師の持仏堂として建立されたが、後に「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂となった。 御影堂前には三鈷の松がある。 建物は五間四面の宝形造で、1843年(天保14年)火災で類焼したが、1848年(嘉永元年)に再建された。

御影堂


三鈷の松
御影堂の屋根飾り

縁起物として松を持ち帰りお守りとしている

この松は四国自転車遍路で、第87番長尾寺から第88番大窪寺に向かう途中、おへんろ交流サロンで戴いたもの。

■ 根本大塔 ■
弘法大師は高野山を開創するにあたり、密教独特の伽藍を構想し、金堂(講堂)を中心に東西に多宝塔を建立することにあった。 東側に位置する大塔(多宝塔)は高さ約48mの巨大な建造物で、大師在世中は完成を見ず、高野山第二世真然大徳の時代に落慶し、根本大塔と呼ばれる。
大塔は創建当初から落雷等による火災との戦いで、その度に建て替えられてきた。 現在の建物は昭和12年に完成し、鉄筋コンクリート造りとし、外装が木造朱塗りの建物となっている。

壇上伽藍でひときわ目を引く朱色の大塔

根本大塔


 ☆彡 孔雀堂、准胝堂、御影堂、根本大塔 の拡大映像 ☆彡

■ 大塔の鐘 ■
鐘楼堂は鉄筋コンクリート製で、屋根は銅板葺で、それまでの木造から昭和33年に建て替えられた。 梵鐘は1547年(天文16年)に鋳造(改鋳)された巨鐘で、大塔の鐘と呼ばれ、高野四郎とも呼ばれている。 それは日本の梵鐘の口径寸法順では知恩院、東大寺、方広寺で、4番目が金剛峯寺と云う事らしい。 江戸時代以前ならば、東大寺に次ぐ2番目だそうです。
根本大塔 鐘楼(大塔の鐘)

大塔の鐘の隣に納経所があり、ここで着用白衣に、胎蔵界大日如来像(根本大塔の本尊)と薬師如来像(金堂の本尊)の納経印を貰う。 初めはどちらの印を…、と迷っていると妻が一言。 「両方お願いしなさい!」と妻が支払ってくれた。 ここから壇上伽藍は一段低くなり、愛染堂、大会堂、不動堂に向かう。

着用白衣に納経印を戴く

愛染堂
蛇腹路方向

大会堂

■ 大会(だいえ)堂 ■
鳥羽法王の皇女の五辻斎院内親王が父の追福のため建立した。 現在の建物は1848年(嘉永元年)に再建された五間の堂宇で、本尊は阿弥陀如来が奉安され、脇侍として観世音菩薩、勢至菩薩が祀られている。

■ 不動堂(国宝) ■
1197年(建久8年)鳥羽上皇の皇女、八條女院内親王が発願され、行勝上人によって建立された。 現在の建物は14世紀前半に再建され、堂宇の四隅はすべて形が違う。 四人の工匠が、それぞれ随意に造った為と伝えられている。 不動明王を本尊としている。

大会堂

蓮池
不動堂(国宝)

不動堂から下方に蓮池を見る事ができます。 ここから蓮池と中島にある善女龍王社を見学に行きます。 蓮池は、他に金堂池と呼ばれる時期があったようで、江戸時代の終わり頃には蓮があったようです。 近年、蓮を植えたが育たず、現在、蓮はありません。

池の形が四角になったり、円形になったりと、絵図ではいろいろ変化しているとあり、名前と形が、その時代、時代で変わっているようです。 池の中島にある善女龍王社は、1771年(明和8年)瑞相院慈光が善女竜王像と仏舎利を寄進し、蓮池の中島に祠を建立した。

蓮池

中島へ架かる橋
中島へ架かる橋

中島の善女龍王社

 ☆彡  鐘楼(大塔の鐘)、蓮池と善女龍王社、蓮池 の拡大映像 ☆彡

■ 西行桜 ■
三昧堂の前にある桜を、西行桜と呼ばれている。 以前の桜は文化年間に枯れてしまい、現在の桜は2代目と云う。 西行法師が1149年(久安5年)高野山を往来し、堂宇の移転、改築した時に植えられた。

道路の方角から中島へ架かる橋を撮影 西行桜

■ 三昧堂 ■
済高座主が929年(延長7年)に建立した堂宇で、もともと総持院境内にあり、 済高師はこの堂宇で理趣三昧という儀式をしていたため、三昧堂と呼ばれるようになった。 移築に係わったのが、西行法師と云われる。

三昧堂

 ☆彡  愛染堂、大会堂、不動堂(国宝)、三昧堂、東塔 の拡大映像 ☆彡

■ 東塔 ■
1127年(大治2年)白河院の御願により、醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建された。 当初は尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世明王の2体も脇侍として祀られた。 1843年(天保14年)に焼失。 140年後の1984年(昭和59年)に再建された。 朱色というより少し赤みがかった色彩です。 曇り空の影響もあるけど、実際に見た目に近い色彩です。

東塔

蛇腹路…東塔東側から伽藍出入口までの小道
東塔

蛇腹路の伽藍出入口

蛇腹路の出入口の処に道路が通っているが、そばに六時の鐘があり、金剛峯寺に繋がっています。 丁度、駐車場に出たので喫煙など休憩します。 通りには、大型バスや自家用車が数珠繋ぎの状態で早く来て良かったと思った。

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