■ 紀伊山地高野山霊場と参詣道 ■
四国遍路と云えば、八十八霊場の札所をお参りすることを云うが、結願するとお礼参りして満願成就するとあります。 お礼参りは厳密な定義があるわけでなく1200年も続く歴史の中でその時代時代に合った作法がおこなわれてきた。
何が正しいかは別として、四国遍路には多様性があってしかるべきと思う。 特に近年は遍路の目的も手段も多様化してるから、遍路する人々の心の思いの数だけ満願成就への思いがある。

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■ 高野幹部交番前から千住院橋経由で密厳院苅萱堂へ ■

交番前から町の熊野古道小辺路(国道480号)、千住院橋に出て高野山密厳院に向かう。 密厳院の苅萱堂まで本覚院、無量光院、本王院、普門院、一乗院、普賢院、大圓院、成福院と摩尼宝塔、三宝院、遍照光院、地蔵院と各寺院を歴史散歩します。 高野山密厳院は、新義真言宗の開祖、興教大師、覚鑁上人の開基にかかる浄刹で、真言宗智山派、豊山派の基礎を固めた。 堂宇の様な警察の建物から向かうは本覚院です。

高野幹部交番
 ■ 本覚院 ■

広い石畳の入口を入って行くと本覚院の門がある。 ここまで車が入れて門前がロータリーになっている。 境内は工事中でフェンスがあり、参拝が困難で撮影も中止。

隣の無量光院に向かう。 ここは霊山寺で納経時、そして結願してお礼参りした時に、高僧の尼僧から宿坊を紹介された処です。 当初、ここに泊る予定だったが、予約しなかった。 霊山寺の尼僧の優しい笑顔が思い浮かんだ!



■ 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 塔頭寺院 無量光院 ■
   本 尊: 無量光如来(阿弥陀如来)
   開 山: 覚法親王
   創 建: 平安時代

無量光院は平安時代、白河天皇の第四王子覚法親王の創建で、 中興の印融大徳は学徳の誉れ高く、その弟子覚融法印、 清胤法印と才器豊かな名僧を輩出した。戦国時代、越後太守上杉謙信公は 清胤(セイイン)師のもと伝法潅頂に入壇、密教の阿闍梨権大僧都の位階を得ている。
本堂で般若心経を黙読し遍路のお礼をした。


無量光院は洛南高校が宿泊
本堂 無量光院本坊

無量光院の向かいには本王院がある。 境内に入り、撮影許可をもらい本堂を撮影。 妻は疲れたのか入口の石垣に腰かけていた。 腹が減っているので食事をしようと足早に通りに出る。

■ 高野山真言宗 別格本山 本王院 ■
   本 尊: 聖観世音菩薩
   開 山: 上野阿闍梨宝心僧都(浄蓮)
   創 建: 1157年(保元3年)
上野阿闍梨宝心僧都(浄蓮)は山城醍醐寺理性院の二代だったが、1157年(保元3年)に訪れ、蓮華谷の明遍谷に菩提心院を開いた。 安政年間に五大院と合併して現在地に移転した。 本尊は聖観世音菩薩で、阿弥陀如来と十一面観音菩薩も祀られている。 本堂で黙読の般若心経を読経する。

本王院

本王院寺坊入口には仁王像が…
本王院境内

本王院本堂

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\(*^o^*)/ 現在11時46分、お昼の時間になり千住院橋交差点で食事処がを見つけた。 お店に入ると、すぐ目の前のテーブルが開いていたので素早く着席! 八割方、テーブルはお客でいっぱいです。 お腹が減って、ご飯ものが欲しかったのでカツ丼定食を注文。

混雑してるから時間がかかると云われたが、椅子に座れる事の方を妻は喜んでいた。 大分疲れているように見えたので宿坊には早めに行こうと考えた。 雑談してるうちに20分位で注文したカツ丼定食が運ばれ、予想より早かったのでゆっくりと食します。 店内にいるうちに小雨が降ったり、陽がさしたり、天気も忙しい。

食堂で1時間ほどノンビリした。 天気も雨が止んで陽が射してきた。 妻も元気になり体力も回復したようだ。 通りに出て、先程の続きで歴史散歩再開。

普門院、一乗院、普賢院と歴史散歩したが、般若心経を読経できたのは一乗院大師堂だけでした。 本堂、大師堂まで勝手に入ることはできないから致し方ない。

 普門院
  一乗院
   普賢院へ
普門院

一乗院

一乗院大師堂
普門院寺坊

一乗院境内

普賢院

千手院橋交差点まで戻り、こから奥の院方面に歴史散歩を継続。 大圓院、成福院と摩尼宝塔に向かう。

大圓院参拝で印象に残った同期の桜の石柱から、多くの若者が、殉職、西太平洋各地において戦死、 戦傷病死、また神風特別攻撃隊として散った事を、明日の奥の院探訪で再確認できるとは予想しなかった。 有史以来、あらゆる命が奥の院に眠る。

 ■ 大圓院 ■ 大圓院 同期の桜 大圓院寺坊

■ 高野山真言宗 成福院 ■
   本 尊: 大随求明王木像(だいずいぐみょうおう)
   開 山: 中興尭栄重源房が再建
   創 建: 不明 (1523年の大火で類焼にあい、過去の記録は全て焼失)
1523年(大永3年)の大火で、その詳細は明らかではないが、中興尭栄重源房は美濃の人で、1539年(天文8年)に検校となり再建された。

成福院と摩尼宝塔 成福院

■ 摩尼宝塔の由来
発願者は成福院の前住職、故上田天瑞大僧正(元高野山大学学長)は仏教研究でタイに渡ったが、大戦で嘱託としてビルマに向かった。 ビルマ各地で当地の人々に教育を、その後、ビルマ僧として修行。 ビルマ仏教協会から贈呈された釈迦仏像、大蔵経を奉持し帰国。 この仏像を本尊としビルマ戦没英霊を供養することを発願し、摩尼宝塔を建立し英霊の菩提を弔う歴史がある。

成福院の摩尼宝塔は日本でも珍しい八角形のお堂です。 ビルマのパゴダは殆どが円形だが、そのビルマのパゴダを表すものとして八角形のお堂がある。 2000年(平成12年)、塔内の壁にステンドガラスを施し、床にはミャンマーから取り寄せた大理石を使用するなど大改修がおこなわれた。 その摩尼宝塔に参拝する。

成福院寺坊

摩尼宝塔入口


摩尼宝塔入口の両側には、獅子が守っている形です。 この獅子も大理石で造られていた。 中に一礼して入ります。 日本の拝殿とちょっと違う違和感があり、中央に拝殿があり、その周囲が周回できるようになって、いろいろな展示がある。 我が家の戦没遺影を思い参拝した。










摩尼宝塔の地下は八角の地下道を巡る所となっていて、真暗な中で仏の威神力によって罪とけがれから浄められ、 真の自己を知って幸福の鍵にふれる修行場となっていた。 長野、善光寺の戒壇巡りと同じように久しぶりに妻と手を取って真っ暗な塔内を歩いた。

摩尼宝塔から進んで三宝院へ、そして苅萱堂までもう少しです。 現在3時前で苅萱堂を見学後、宿坊の金剛三昧院に向かう。

 ■ 三宝院 ■ 三宝院

奥之院方向の景観
千住院橋交差点方向の景観

通りの出店で販売される高野槇

高野山と云うこの地域には塔頭寺院が数多く連なり、 京都や奈良の寺院巡りとは異なる雰囲気がある。 また比叡山を訪れた時の雰囲気とも違う。 何が違うかというと狭い地域に寺院、商店が並び、人間の生活感が溢れ、高野山は独特の雰囲気を見せてくれる。 元来、日本史好きの私にとって、その雰囲気を感じながら寺院巡りするのは性に合う。

 ■ 遍照光院 ■
 ■ 地蔵院 ■


別格本山遍照光院

地蔵院

■ 高野山密厳院 ■
   本 尊: 大日如来
   開 山: 興教大師覚鑁上人
   創 建: 1132年(長承元年)
新義真言宗の開祖、興教大師覚鑁上人の開基にかかる浄刹です。 更に大師は紀州根来山に大伝法院を創立して真言宗智山派、豊山派の基礎を固めた。 この建物は昭和6年に改築しその古跡を保存している。 我が家は豊山派のため今日どうしても訪問してみたかった。

苅萱堂入口

密厳院入口横にある石童丸の母、千里姫の墓

苅萱堂全景
密厳院入口

密厳院

苅萱堂の正面

苅萱、石童丸の哀話の苅萱堂は密厳院の所属になっている。 苅萱父子は40年の長期間、この堂に於て親子名乗りをせず修行したことは、 当時、女人禁制の高野山の掟により母を山麓の宿に残し、父を捜し求めて登山した石童丸の帰りを待ちきれず亡くなった悲劇と共に、 現在に至る迄人の涙をそそるものがある。
☆彡  密厳院 苅萱堂 の拡大映像 ☆彡

苅萱堂内の回廊に石童丸の哀話を絵物語で綴られている




苅萱堂内を撮影しながら一回りし出口まで来たら撮影禁止と云われた。 禁止案内が無かったので、説明文を熟読しながら出口まで来たら云われ謝った。 お咎めは云われなかったので10数枚の中で3枚だけ掲載。 豊山派の信徒ですと、お話したら係員の和尚が、苅萱堂の石童丸の哀話を絵物語に合わせて事細かく説明してくれた。(感謝!)

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