■ 郡上八幡城 ■
郡上八幡城の起源は戦国末期に郡上一帯を東氏が支配していた。 東氏は郡上八幡の町を挟んだ反対側にある東殿山に東殿山城を構えていたが1559年に八幡山に砦を築いた遠藤盛数に滅ぼされた。 遠藤氏は東殿山城を奪い郡上一帯を支配したが、そのまま八幡山の砦を拡張して城郭として整備したのが郡上八幡城の始まりです。 元々、石垣などは整備したが明治まで天守はなかったという。 現在の天守は大垣城を参考に1933年に模擬天守として全国的に珍しい木造で建築された。


6時半起床して準備をしてから7時過ぎには民宿を出た。 素泊まりだから身支度は早く、一番に郡上八幡城に向かう。 民宿のご主人から、お城まで車で行かれると教えて貰い、八幡町大手町で郡上八幡城の石柱を確認して細い道を登っていく。 大きなカーブを曲がると公園があり三叉路になっていた。 城への道路入口に一方通行の標識があり、ここで路肩に駐車して観光案内図を確認する。 公園にも行ってみた。 ここからも街中の一部が望見できる。 大きな屋根の安養寺本堂が印象的だ。



公園(元二の丸付近)
登城口

安養寺本堂と街並み

何故か公園には山内一豊、千代の立派な銅像がある。 調べてみると千代の父親が郡上八幡城の初代城主遠藤盛数と伝わるらしい。 山内一豊は乱世に、信長、秀吉、家康に仕え、最後は初代土佐藩主となった。 その陰には妻、千代の献身的な支えがあった。 したがって郡上八幡城は千代ゆかりの城となって、天守が見える所に銅像が建立されていた。

郡上八幡城と山内一豊と妻千代像

公園には円空の癒しの水と共に微笑みの円空像が建立されている。 円空は郡上市出身といわれ、何万体もの微笑みの仏像を造り、人々の幸せを願ったと伝わる。 さて一方通行を再確認して車を走らせるとこれが思いもよらず細い道だった。 小さなカーブは切り返さないと進めな〜い。 上まで木に覆われて薄暗くとにかくゆっくりと車を進めた。

円空像と癒しの水 登城口 道は一方通行
車内から城への小道を撮影。 本丸への大手口と思われる石垣のところを通過し周囲が明るくなり見通しが良くなったので、一時停車して周囲を撮影。 石垣の積み方は戦国時代前期の工法で野面積みです。

大手口

一時停車したところから天守が視認できる。 さらに進むと広い駐車場がある。 約30台分くらいの広さで天守の後方です。 8時前で一台も車はないく。 案内図や説明書きも撮影して後で資料の整理に使う。 一服喫煙して戻る形で石垣の端を歩いて天守に向かう。

駐車場 本丸への脇道

このあたりの道は当時の脇道か? そんな思いで天守西側の隅櫓へ向かう石段は、戦略上の城の造り方で、当時の武将の思いを考えてしまう。 その先には本丸の大手門の場所らしき少し広いところがあり、ここに立つと見晴らしが良くなる。



天守西側の隅櫓への石段

大手門前の広場
大手門横の広い場所は本丸と天守、隅櫓がよく見える。 石垣側には二つの石碑がある。 ひとつは「およし碑」で詩が書かれているが経緯が分からない。 もう一方は「力石」と書かれていた。


社殿
大手門前の広場

南無妙法蓮華経の石碑

「力石」の横に説明板があり、これによると、寛文七年(1667年)の城の修築の際に、人夫の作兵衛が城下の河原から背負って運び上げたものといわれる。 奉行がその力量を激賞すると、彼は感涙して力尽き、その場で息途絶えたという。 奉行は憐れに思って、この石の使用を禁じたという。 昭和8年の城再建工事の時に、草の中に放置されていた重さ350sの石を碑として安置したものと記されている。



力石

大手門へ
力石(左)とおよし碑(右)

大手門前広場から見た天守

力石や石碑がある広場から本丸天守がよく見える。 石垣がよく見える位置を探して撮影。 天守から隅櫓と続く白塀があり美しい姿を見れる場所だ! 紅葉の一歩手前で、後一か月すれば美しい姿を見れるでしょう。 大手門に続く石段を上り隅櫓の直下に向かう。








弟が釣りマニアで長良川にも足を延ばして郡上を訪問したと聞く。 その時の映像を見せて貰い興味を持ったのが今回の訪問のきっかけです。 チャンスがあれば訪問したいと思っていたが、今回は台風の影響で北陸方面から中部地域の旅だ。 天守入口の桜の丸門前には売店がある。 その売店は全ての扉が閉じられていた。 後から管理人が来て「時間前だが暫く待てばお城を開けてやるよ!」と声をかけられた。

管理事務所兼売店

桜の丸門


とりあえず桜の門や周辺の撮影、白塀に狭間があるので中の様子を見る。 城の中は資料館になっている。狭間からデジカメを入れて内部の撮影をした。 天守には右側に付櫓があり、ここが出入口のようです。 隅櫓も撮影。模造天守だから登城はやめた。



狭間にデジカメを入れて撮影

狭間にデジカメを入れて撮影
狭間にデジカメを入れて撮影

狭間にデジカメを入れて撮影

売店の見晴し台に案内があり、東殿山城のあった東殿山が真正面に見える。 丁度、郡上市内の反対側の山です。 これによると東殿山城は東氏が130年間、この地を治めてきたそうで、遠藤氏によって10日間に及ぶ攻城戦で落城し滅ぼされた。 この場所から視界が良好で眼下に郡上の街並みが良く見える。 長良川支流の吉田川が市の中心を流れ、川を中心に街並みが造られているのがよく判る。 売店の裏側に回り石垣を少し降りて天守を展望したら結構いい感じの映像が撮れた。 15分ほど待ったが城のオープンの気配が無かったので、管理人に声をかけて町に向かうことにする。

売店の見晴し台

東殿山城のあった東殿山

売店裏の石垣を降りて撮影
売店裏の石垣を降りて撮影

見晴し台から見える吉田川と市街

売店付近にいた時、町の人たちが朝の散歩でお城に来ていた。 聞いたら毎日の日課だという。 足腰が健康だからできる散策である。 大手門付近で観光客とすれ違った。 新潟から来たという。 女性の二人旅で郡上をのんびり観光するそうです。 大手門から西側の隅櫓に向かうと石段があり天守の裏側に回ることができる。 後方からも天守を直接見ることができる。 直下の石垣は崩れていて下に降りることができるので下方から撮影する。 もしかしたら搦め手口かもしれない。

東隅櫓と白塀

西隅櫓の入口

天守後方
西隅櫓と天守

この場所の後方は駐車所に続いていた

西側の隅櫓のほうは、天守より2mほど低いが大きな屋敷ができそうな広さがあり天守内が白塀、東側隅櫓と見通しが良かった。 また山側の見通しも良く下に駐車場が視認できる。 ここに「道は一筋なり」の石碑がある。 「凌霜の森」と記され、幕末時戊辰戦争で幕軍と共に官軍と戦い続け、会津若松城の戦いで降伏した凌霜隊の石碑でした。



西隅櫓から見通しは良い

西隅櫓から見通しは良い




西隅櫓

西側隅櫓から大手門と同じ高さの小道に降りることができる石段がある。 先ほど通った通路でこの時間になると観光客とすれ違うことが多くなった。 このまま駐車場まで戻ると首洗い井戸に気が付いた。 駐車場の片隅に立て看板もあったが、上ばかり視点が向かっていたので気が付かなかった。 案内によると、この一帯は駐車場として利用されるまで、雑木の生い茂った湿地帯で、ここに浅い井戸が潰されていた。 井戸の周りは昼も暗い場所で、現在は埋め立てられて跡かたもないが、その昔、首洗いの井戸と伝えられている。 慶長の合戦で討ち取られた寄せ手の武士や汚れた首が洗い清められ、首実検に供されたと記してある。

東隅櫓 首洗いの井戸

駐車場に戻り、丁度、9時半。 町へは更に一方通行路を下りる。 下りは道が広くなり途中、ホテル前を通過して公園前を通過。 ここから大手町前の城下町プラザに到着。 古い街並みを散策するため駐車場を探し、城下町プラザで聞くと空きがあり一日500円を支払う。

城下町プラザで話し好きのお爺ちゃんから街並みのパンフレットを貰い、詳しい説明と散策のコースを教えてもらう。 その前に早朝からのお城見学で大休憩。 プラザはオープンしたばかりで店の人も忙しそうに動いている。 ベンチに腰掛けサンドイッチとコーヒーで簡単な朝食をとる。

inserted by FC2 system