■ 郡上八幡の散策…城下町プラザから宗祇水へ ■
郡上八幡は年間の降雨量が非常に多く、豊かな森林とカルスト地形の石灰岩に浸透し、市街に数多くの湧水箇所がある。 1471年篠脇城主が宗祇に古今伝授を終えて帰京する時に一句読んだ。 江戸時代に多くの藩主によって泉の保存と古今伝授が顕彰され、石の水場が整備された。 水場は湧口から水源、飲料水、食糧洗浄用、さらし場(食器等の洗い場)と取り決められた。 1985年に「宗祇水(白雲水)」として名水百選第一号に指定された。


安養寺は郡上八幡城の登城口にあり、城域の三の丸にあたる位置にある。 三の丸の跡地に移転した安養寺は明治23年に本堂を再建した。 しかし大正8年に大火で焼失し昭和11年に再建され現在に至る。 本尊は阿弥陀如来像で境内は1800坪の広さがある。

安養寺正面

鐘楼
安養寺正門(境内から)

本堂
門を通り境内に入ると開放的な広い敷地が目につく。 宝物殿には15尊像絵像や親鸞聖人御影、蓮如明号など県指定の文化財がある。 石山合戦の時代の信玄や信長の多数の文が現存しているという。


宝物殿


庫裡

安養寺の車の出入口から道路に出ると反対側に「日本まんまんなか」と記された看板がある。 釈迦三尊臍の堂、およし観音堂があり寄ってみた。 ここは総本山鞍馬山郡上別院善光寺で、民宿もしてます。 案内板によると昔、白山中宮の社坊として創建し、明治初期には廃寺に等しかったという。 その後明治25年に郡上八幡城跡のこの地に堂宇を建立し地蔵菩薩を安置して長滝寺となった。 明治32年に信州善光寺から分身を勧請し郡上善光寺となり、昭和25年には京都鞍馬寺から毘沙門天を奉請して鞍馬山郡上別院と改めたという。



宿坊



釈迦三尊臍の堂、およし観音堂


善光寺を出て少し上に長い石段を見つけ登ると岸剱神社だ!この一帯は郡上八幡城郭内だったと思われる。 ここに「凌霜隊」の石碑がある。 説明板によると、明治元年におこなわれた会津の戊辰戦争に際して、徳川譜代の青山藩は、 尊王と佐幕の両派に藩論が分かれ、江戸では凌霜隊を組織して会津藩に向かう。 途中で薩長をはじめとする連合軍と戦を繰り返しながら、会津鶴ヶ城では西出丸の防備を担当した。 鶴ヶ城の落城で故郷に返され、藩の脱走兵として罪人の汚名のもとに赤谷の揚屋に幽閉される。 揚屋での生活は苦しく病人が続出し、その後城下の長敬寺に移され釈放されたが、世間の目は厳しく多くの隊員は故郷を捨て移住した。 昭和15年、凌霜隊の愛郷と団結の精神を偲び、郡上郡青年団がこの顕彰碑を建立した。とある。 幕末に非業の最期を遂げたり、悲哀の内に故郷を捨てざるを得なかった陵霜隊士の気持ちはどのようだったのかを考えてしまう。

石段上に建つ、風変わりな鳥居

境内に建立された「陵霜隊」碑
境内入口にある金幣社岸剱神社の石柱

二の丸の城壁

岸剱神社は4月におこなわれる春祭は岸剱神社、日吉神社、八幡神社の三社の大神楽競演が見もので、郡上八幡に春の訪れを告げる祭礼です。 朝早くから夜遅くまで町内の氏子が提灯を持って迎える姿は情緒あるこの地の風景で、この時期は郡上は見所が満載だそうです。 また、7月には郡上踊りが開催され、28日には岸剱神社川祭りがおこなわれる。 養老元年(717年)に元正天皇の勅命を受けた泰澄大師が御宝剣を神体として奉納したのが始まりとされている。 後水尾天皇から岸剣宮の称号と十六菊花紋を許され、本堂の屋根上には菊花紋が燦然と輝いていた。



拝殿の十六菊花紋
拝殿

覆屋と本殿
公園から境内も含めて、この一帯は郡上八幡城の二の丸の帯郭があり意外に広いエリアであると思った。 一通り境内を回り映像を重ねてゆく。
公園側の境内北参道入口

長生殿


「六地蔵堂」とは衆生(人間)が生前の善悪の所業により、死後いずれかの世界に行くといわれている。 六道(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人界、天界)の辻にあらわれて、亡者を導くという思想に基づいている。
賽の河原地蔵菩薩は賽の河原は子供が死んで赴く冥途の途中にある。 冥途へ参る途中のこの賽の河原で子供は石を積んで塔を建て、親に先立った罪の償いをしようとするが、 積む後から鬼がやって来て、折角出来上がった石塔を崩してしまう。 子供たちは泣き泣きまた同じように石を積むのである。 河原で泣きじゃくる子供らをかばい救いとってくれるのが地蔵菩薩である。

秋葉三尺坊悟竹院入口

賽の河原地蔵菩薩
六地蔵堂

参道右側にある境内社養蚕神天神七代金毘羅社

秋葉三尺坊悟竹院は郡上郡の火防守護所として、秋葉総本殿可睡斎から秋葉三尺坊大権現御分身を勧請している。 明治29年から一日に4度(朝5時、正午、夕6時、夜9時)火防の時の鐘を鳴らし続けている。 「勝手に撞かないでください」の表示があった。 一通り撮影と見学をして城下町プラザに戻った。

悟竹院本堂

城下町プラザは主に観光バスの駐車場になっている。 そのため小型車のスペースは5台しかなく、市内循環バス(通称まめバス)と合わせて観光のターミナルになっているようです。 妻と合流してプラザの店内を見て回る。 大型バスが停車し観光客の団体が続々と降りてきてプラザは大賑わいになった。 頃を見計らい店を出て外のベンチで喫煙する。 係りのお爺ちゃんが観光案内のコースをパンフレットの絵地図を利用して教えてくれた。

城下町プラザ城下町プラザ前通り まめバス 1回100円 本町の街並み

最初に訪れたのは肴町にある白龍稲荷神社です。 2、3階建ての家屋ぐらいの大きさの岩山が肴町の真ん中にあり、商店街の中で際立つ違和感がある。 家と家の隙間に大きな岩山があり、入口には鳥居と旗が並んでいる。 鳥居をくぐって石段を登っていくと鳥居と祠がある。 周囲の眺めは建物の屋根と電線しか見えなかった。 曇りがちの天気から小雨が降ってきた。 台風の余波がここにも及んでいる。 日本海側と太平洋側は雨模様で、ここ内陸部は曇りの予報だった。 一度車に戻り傘を取りに行く。

白龍稲荷神社

傘を取って戻ったら雨は止んでいた。 白龍稲荷神社から宗祇水に向かう。 水と踊りの町の郡上八幡は古い街並みが残り、きれいな用水路が流れる風情のある街並みです。 民家の玄関には石灯篭がある。 はじめはなんだか判らなかったので玄関を掃除していた人に聞いてみた。 これは石灯篭で夜になると明かりが灯り、道行く人々に風情を楽しんでもらうという。 石灯篭の中に明かりを灯し、それぞれ川の流れのように窓が造られている。

本町の街並み 石灯篭

肴町の吉田川と小駄良川の合流地点のそばに宗祇水の通りがある。 通路に棟門があり宗祇水の表示がある。 石畳の通路に入っていく。 時刻は9時20分を過ぎてチラホラ観光客の姿が見えている。 殆どが個人客で団体はまだ見えない。 通路の商店を覗くとお煎餅店だった。 商品の中に奥美濃カレー煎餅があり珍しいので撮影する。 郡上地味噌入りとはどんな味がするんだろうと思ったが朝から食欲はまだわいてこない。

お洒落な街並み 宗祇水棟門 宗祇水へは石畳の道お洒落な宗祇水の灯篭

石畳の通路を下るとお洒落な宗祇水の灯篭があった。 その右手に宗祇水の祠が見えた。 宗祇水は環境庁が選定した名水百選第一号に選定されて機会あれば訪れたいところだった。 弟から郡上はいいよ!と聞かされていたので、今回は楽しみにしていた。

右手に宗祇水の祠

宗祇水全景

宗祇水の水場の先は小駄良川で、そばに朱色の清水橋がある。 橋の欄干に妻が佇んで撮影していた。 小駄良川は河川敷が遊歩道になっていて散策できる。 洞泉寺橋はかつて大手門のあった所の川に架かる橋で大手橋があった処。 清水橋を渡り尾崎町に入る。 暫く歩くと中河原公園があり入口に湧水の木桶があった。

小駄良川朱色の清水橋清水橋 小駄良川上流の洞泉寺橋湧水の木桶 朱色の清水橋親水遊歩道

河川敷の公園に入ると町の風景が変わった。 ここで小駄良川は吉田川に合流する。 長良川の支流の吉田川はアユ釣りや地元の子供たちの遊び場に格好のところです。 夏には水遊び場になるという。 長良川に向かう方向に親水遊歩道が造られている。 車両も入れるようで何台かが駐車していた。

小駄良川と吉田川の合流点 吉田川に架る宮ヶ瀬橋 中河原公園
城下町プラザから安養寺、善光寺、岸剱神社と巡り、白龍神社、本町の宗祇水、中河原公園まで散策。 妻とベンチで小休憩、喫煙してガイドマップを確認。
inserted by FC2 system