■ 久能山東照宮の歴訪 ■ 私の誕生日に何をしたいかと妻に聞かれ、開口一番、旅に出たい! と云う訳で新年の最初の旅は久能山東照宮と富士山本宮浅間神社をプランした。 冬の時期の富士山は山容が美しい時期で天気予報を確認して決行。 土曜の3時起き、4時出発だったが予定は1時間遅れになった。 自宅から環八で東京ICに入る。 3連休のわりに東名道は思ったほど混雑なくスムーズに走れた。 |
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久能山参詣道 | 一ノ鳥居 |
一ノ鳥居をくぐるとすぐ右側に久能山徳音院がある。 家康公ゆかりの寺と記された看板がある。 徳音院は家康から三代将軍まで仕えた南光坊天海により開かれた寺で、本尊は薬師如来で、駿河の霊場の一つです。 石段を上る途中に駿河稲荷社があり、説明書きには久能山の代官が伏見稲荷社から勧請したもので、 屋敷内に祀られていたものをこの地に移したと書かれている。 |
久能山徳音院駿河稲荷社 | 野球選手がダッシュで…もうすぐ280段目 | 210段目| |
一ノ鳥居前に小中学校の体操服を着た集団が集まっている。 この集団は二つのグループで、一つは野球部、もう一つは陸上の子供たちです。 今日は土曜日だから、ここの石段を利用して体力造りに励んでいる。 また、上から石段を清掃していたこの地の子供たちが箒やビニールに入れたごみを担いで降りてくる。 石段を子供たちが上り下りしている中を一段一段登っていく。 快晴で早朝のこの時間は非常に気持ちがよい! パンフレットでは一ノ鳥居から上まで1159段を誇り、「いちいちごくろうさん」と呼ばれている。 ロープウェイが出来るまで、久能山東照宮へはこの石段のみが参拝路だった。 |
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790段目 | つづら折りの参道 | 一ノ門 |
一ノ門をくぐると正面に門衛所がある。 門衛所の役目は江戸時代にさかのぼり、久能山東照宮の参拝が制限された時期があり、当時の与力が門衛所に詰めて警衛の任についていた。 門衛所を過ぎても石段は続くが石段の幅が広くなった。 暫く進むと右側に登る石段の横道があり旧宝物館への路でした。 |
門衛所旧宝物館 | || | || |
旧宝物館を過ぎると石段の傾斜も緩やかになり、もうすぐ境内に到着する。 左手に展望場所があり駿河の海を一望でき、遠くに続く山々の稜線が海につながる。 右方向に続く参詣道に社務所があり、その手前右上に新しい博物館があった。 案内では9時からオープンしているが人気はまだなかった。 社務所で妻が拝観料を支払っている間に周囲を見ると社務所の奥にロープウェイ乗り場がある。 |
参詣道 | 博物館 |
拝観口の「国宝久能山東照宮」の看板がやたらに目につく。
初めての訪問で歴訪の意味をかみしめて参詣道に入っていく。
山に向かう形で急な石段があり楼門が見える。
観光客が途切れるのを待ちながら撮影モードを日陰にセット。
また久能山東照宮参拝の案内があったので、まとめてみた。
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拝観口 | |
| 楼門 |
楼門の扁額は東照大権現と書かれ、後水尾天皇の書かれた書です。 勅額御門とも呼ばれている。 朱色を基調に鮮やかな色彩の造りが際立ちます。 ひな壇上の境内に左右に堂宇があり、門の右側に家康公の手形が置かれている。 私の手と比較したが結構小さかった。 38歳時の身長155p、体重60sと記されている。 楼門の右手に厳島神社と稲荷神社が祀られている。 |
真近から楼門を撮影 家康公の手形 |
| 厳島神社と稲荷神社 |
楼門から次の石段上にある鳥居までの空間は左側に神厩がある。 神厩は家康公の愛馬の厩舎で、愛馬が死んだあとは名工左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し厩舎に収めた。 馬の眼球には当時貴重なガラスが使われている。 神厩の前にある手水舎は高さが170p位しかなかった。 |
| 神厩 |
手水舎 家康公の愛馬の彫刻 |
数段の石段を上がり石の鳥居をくぐると、右側に鼓楼、左側に五重塔跡がある。 鼓楼は創建時、鐘楼として建造されたが、明治の神仏分離令で仏教施設の鐘を太鼓に替えたという。 太鼓は明治6年に江戸城にあったものを旧幕臣が奉納したと伝わる。 五重塔跡は三代将軍家光公の命で五重塔が建立されたが江戸時代の資料では高さが30mもあったという。 明治の神仏分離令で明治6年に取り壊され、現在は礎石だけが残されている。 |
鼓楼 五重塔跡礎石 |
鼓楼 五重塔跡礎石群を上から撮影 |
唐門と透塀の前に到着。 ここも数段の石段を残しているが、左側に神撰所、右側に神楽殿がある。 神撰所は閉じられており中を見ることはできない。 神楽殿は正面から見る限り奉納された酒が置いてある。 横に回ると軍艦の大型模型やスカイツリー模型、この地の特産品などが奉納されていた。 神楽殿の名称だが神楽はおこなわれず、武家奉納の絵馬を掲げたと伝わる。 |
| 神楽殿 |
神楽殿 神撰所 |
唐門前に到着した頃、体力造りの子供たちが引率の大人たちと参詣しに来た。 …団体で本堂の拝殿内に入ると境内には誰もいなくなった。 撮影を続行、唐門と透塀の映像をいろいろな位置から撮影。 3連休の初日の10時過ぎの時間帯で一瞬の間、境内が静かになった。 |
| | 本殿を囲む唐門と透塀 |
極彩色の唐門を正面からその美しさを見てみる。 一つ一つの木材の組み合わせが美しく煌びやかに映える。 下から見上げると屋根のカーブが強調されてなお美しい! ここから下方を見ると本殿内に残っていた観光客が降りて、向かっている観光客は少ない。 楼門からここまでの高さが強調されて高い位置に本殿があることがわかる。 |
唐門 神撰所 |
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社殿は本殿、石の間、拝殿とつながり一体となっている。 本殿に家康公が東照大権現として祀られている。 家康公の遺命によって没後、二代将軍秀忠は神社の造営を命じ、驚くべき短期間で社殿が造営された。 ここで権現造りについて調べると、社殿の様式は本殿、石の間、拝殿を一体にして建築されている。 そういえば、日光東照宮や輪王寺の大猷院には本殿と拝殿の間に石の間と同様な造りがある。 (大猷院は相の間と呼ばれている) 神社建築様式の権現造りは久能山東照宮が原型といわれる。 |
拝殿で神妙に正座する生徒達 拝殿 |
社殿 本殿 |
本殿、石の間、拝殿の屋根の部分も400年経過した美しさが見てとれる。 社殿の右側には初詣の参拝の受付テントがあり奥には入れない。 左側に回ってみると本殿の豪華さが見てとれる。 拝殿と本殿の間に透塀が設けられ小さな出入門があり、ここを抜けると本殿の側面を見れた。 朱色を基調とした建物から一転して黒を基調とした本殿があり、これも見事な装飾です。 |
拝殿の装飾 御神廟への通路 |
本殿への通路 本殿の装飾 |
堪能した後、透塀を出てさらに上に続く石段があり、廟門から御神廟まで石垣の参詣道が続く。 左右に、仕えた戦国武将が奉納した石灯篭が続いて、先程まで煌びやかな社殿から一転してモノクロの世界に入った感じ。 歴訪の旅感覚から霊験ある世界に迷い込んだ気持ちになった。 石段を右に折れると正面に御神廟が見えた。 |
御神廟を見て最初に感じたのが日光東照宮のイメージが思い浮かんだ! 三代将軍家光公により高さ5.5m、周囲8mの御廟所が建立され現在に至る。 この石塔を撮影するのに三脚とタイマーを使った。 |
御廟所 苦労して撮影した石塔 |
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東照宮遺訓 |
愛馬の霊所 金の成る木の大木 |
御廟所前の灯篭 日枝神社 |
ひと時の時間を過ごしていたら子供たちが参拝を終わって御神廟までお詣りに来た。 これを機会に社殿まで戻った。 社殿の隣に朱色の社殿がある。 日枝神社で御祭神は大山咋命ですが、もともと薬師如来が安置され薬師堂と呼ばれていた。 明治の神仏分離令で明治3年に仏像は大正寺に還し、山中にあった山王社の御神体を納めたそうです。 社殿の中をのぞくと代々将軍の盾が並んでいる。 日枝神社と正対して神庫がある。 神庫は奈良の正倉院と同じ校倉造りの建物で東照宮の奉納品がここに納めてある。 |
日枝神社 神庫 |
代々将軍の盾 | |
日枝神社の石段を下りていくと丁度神楽殿の横にでる。 見える限りは大型模型や地元の品物が奉納されている。 神庫の下に小さな社殿があるがパンフレットには何も記されていない。 神庫の社かも知れない。 神楽殿の横を通って参詣道に出る。 神撰所前を通り石段を下りて社務所前に戻った。 |
| 神撰所 |
神楽殿 社務所 |
駐車場まで1159段の石段を下りていく。
下りは上り以上に慎重に歩かないと足をくじいたりする。
年はとりたくないと思うが、こればかりは人間平等だ!
お土産店に入り名産の石垣イチゴを買う。
孫へのお土産に喜ぶだろうか?
駐車券を見せて、お店の人が駐車場の無料券をくれた。
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|| | |消波ブロックと富士山 | |道の駅富士の展望台 |
三保の松原と砂浜と富士山の景観の中に消波ブロックの存在が気になった。 景観には邪魔だが美しい砂浜を残すためには必要! 景観論争はどこまでも続きそう。 国道1号線か、東名道かどちらを走るか迷ったが、清水市内を抜けると国道1号線は俄然走行が楽になった。 バイパスを走り道の駅富士で大休憩。 この地の人々はいつもこの富士山を眺めているのかと思うと羨ましくなる。 |
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