■ 了仙寺とペリーロードを散策 ■ 下田は幕末に黒船が入港するよりも、ずっと前から下田港は開かれていた。 徳川家康が江戸幕府を開いた頃から関西と江戸の間を航行する千石船の要所として海上の関所の役目をしていた。 下田が開港した訳は江戸との距離が近からず遠からずの理由で、 当時は浦賀にも港があったか、江戸城に近すぎるという理由で下田が開港され、これに伴い下田奉行がおかれることになる。 |
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了仙寺とペリーロードへの門 了仙寺本堂 |
寺務所 本堂の扁額 |
扁額など本堂の装飾部も次々に撮影。
屋根瓦の端にある鬼瓦は左右対称でないのに気がつき、左右とも撮影してみた。
本堂の内部には撮影禁止の札が無いので撮影。
わずか15分間で満足いく映像を撮った。
本堂の柱に「日米友好萬…」、「日米締交法燈下」、「唐人お吉の駕籠」と書かれた看板が掛けてある。
唐人お吉の駕籠と使用した和傘は本堂入口の天井に吊って展示してあった。
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本堂の装飾部 日米締交法燈下の看板 | | 屋根瓦の装飾 唐人お吉の駕籠 | | 日米友好萬…の看板 お吉の和傘 ペリー提督黒船陸戦隊調練の画 |
本堂から離れて、その奥に案内があるので向かった。 了仙寺横穴遺跡があり、この洞窟は約1300〜1400年前の古墳時代にお墓として利用されていたという。 洞窟内から人骨と共に装身具や土器、須恵器などが出土した。 横穴の洞窟などは付近でも発見され伊豆半島南部の古代の特徴があるという。 宝物館は団体が入り混雑して撮影禁止のため入館しなかった。 |
了仙寺横穴遺跡 |
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了仙寺の門からペリーロードを散策 |
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|| | |1829年製の30ポンドカロネード | || |
わずか500mの距離ですが途中に旧澤村邸が平滑川の曲がり角にある。 なまこ壁と伊豆石という下田の特徴的な建築様式の建物で中に入った。 平成20年に下田市に寄贈。 元々、下田の発展に寄与した家柄で、市として歴史的建造物として保存活用している。 玄関に入ると右手に澤村邸の紹介があり、左手の応接間は休憩処になっており若者達が寝転んでいた。 奥座敷には旧澤村家の家具や調度品が当時のまま置かれている。 |
旧澤村邸 澤村邸の紹介ルーム |
平滑川 応接間は休憩処 |
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奥座敷 | 奥座敷 | 皮革工芸の作品展 |
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ペリー上陸の碑は嘉永7年(1854)ペリーと幕府との間で日米和親条約の交渉過程で開港地として下田が提示されペリーは調査船を派遣。 下田港が外洋に近く、安全に接岸できると確認し下田開港が決定。 その場所が下田公園の鼻黒の地で、ここを上陸記念の地としてペリー上陸の碑が建てられた。 錨はアメリカ海軍から寄贈。(記念碑から抜粋) |
■ ペリーロード界隈を散策 ■ |
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安直楼 |
安直楼からペリーロードを横切る形で今度は長楽寺に向かう。 下田歴史散歩道マップを見ながら散策し、山側にある小道を上がると長楽寺の看板がある。 大変わかりやすいマップだ! |
本堂への石段 |
史跡 |
本堂 |
長楽寺は日露条約調印所、日米条約批准交換所と説明書きがある。 安政元年(1854)当寺にて日本とロシア使節海軍中将プチャーチンとの交渉の結果、日露和親条約が締結された。 これにより国境が定まり、択捉島と得撫島の間を国境とし、択捉、国後、歯舞、色丹は日本領になり、 得撫島以北の千島列島はロシアに帰属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。 また日米和親条約批准書の交換も行われたという。(説明板から抜粋) |
|石仏像が8体並んでる | || | |鐘楼堂 |
ペリーロードに戻り下田の古い街並みを散策。 了仙寺に戻りお土産店の駐車場に戻った。 妻も歩き疲れたようでお土産店前のバス停ベンチで少し休んだ。 |
寝姿山
なまこ壁の建物
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花で飾られた家前
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最後の写真は了仙寺の石版絵を撮影。 この石版絵、とてもよく造られている。 石版絵でこれだけ詳細に濃淡をつけて造られているのを久しぶりに見た。 まるでモノクロ写真のような感じ。 車に戻って駐車場脇のベンチで休憩し、次は下田開国博物館に向かう。 |
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