■ 了仙寺とペリーロードを散策 ■

下田は幕末に黒船が入港するよりも、ずっと前から下田港は開かれていた。 徳川家康が江戸幕府を開いた頃から関西と江戸の間を航行する千石船の要所として海上の関所の役目をしていた。 下田が開港した訳は江戸との距離が近からず遠からずの理由で、 当時は浦賀にも港があったか、江戸城に近すぎるという理由で下田が開港され、これに伴い下田奉行がおかれることになる。


函館も開港されたが時期的には下田の方が早く、ペリー艦隊の船団が計7隻が入港した。 日米和親条約が締結され、嘉永7年に了仙寺でペリーと日本全権の林大学で日米和親条約附録の細目13ヶ条が批准された。 了仙寺は上陸したペリー一行の応接所となり条約の調印所になり玉泉寺と共に米人の休息所になった。

了仙寺前のお土産店の駐車場に入れて脇道から境内に入る。 本堂の周りに観光客がいるので暫く時間をずらしながらシャッターチャンスをうかがう。 門の隣に和親条約の石柱が建立されている。

了仙寺とペリーロードへの門

了仙寺本堂
寺務所

本堂の扁額

扁額など本堂の装飾部も次々に撮影。 屋根瓦の端にある鬼瓦は左右対称でないのに気がつき、左右とも撮影してみた。 本堂の内部には撮影禁止の札が無いので撮影。 わずか15分間で満足いく映像を撮った。 本堂の柱に「日米友好萬…」、「日米締交法燈下」、「唐人お吉の駕籠」と書かれた看板が掛けてある。 唐人お吉の駕籠と使用した和傘は本堂入口の天井に吊って展示してあった。

本堂の奥には日蓮宗の「南無妙法蓮華経」の文字がある。 壁画に安政元年(1854年)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図(黒船従軍画家、ハイネ筆)があり、 原画はアメリカ海軍兵学校に所蔵、石版画は了仙寺所蔵とある。 訓練終了後、ペリーと林大学との間で日米下田条約が締結された。 本堂は現存してるが、庫裡や鐘楼は安政の大津波で消失した。 この画で判断すると本堂前の境内は結構広いようだ。 陸戦隊の兵員数やその調練の画から当時の状況がよくわかり、アメリカの騎兵隊の様子がわかる。

本堂の装飾部 日米締交法燈下の看板 屋根瓦の装飾 唐人お吉の駕籠 日米友好萬…の看板 お吉の和傘 ペリー提督黒船陸戦隊調練の画

本堂から離れて、その奥に案内があるので向かった。 了仙寺横穴遺跡があり、この洞窟は約1300〜1400年前の古墳時代にお墓として利用されていたという。 洞窟内から人骨と共に装身具や土器、須恵器などが出土した。 横穴の洞窟などは付近でも発見され伊豆半島南部の古代の特徴があるという。 宝物館は団体が入り混雑して撮影禁止のため入館しなかった。

了仙寺横穴遺跡


■ 幕末のロマン漂うペリーロードを散策 ■
ペリーロードとは、黒船でやってきたペリー提督が上陸して、了仙寺で日米下田条約締結のために行進した小道です。 現在の了仙寺と下田公園の間の約500mの距離です。 平滑川の両側の石畳の小道沿いはなまこ壁や伊豆石造りの風情ある家並みが続いている。 まずは了仙寺の門からスタートした。

了仙寺の門からペリーロードを散策




昔は大坂町、坂下町、弥治川町と呼ばれた町並みです。 伊豆石と柳並木の景観が江戸時代の雰囲気が残り、古い伊豆石の建物も情緒あふれる景観です。 新緑が川の流れに写り歴史の町を歩く。 観光客の流れが途絶えた時に撮影するのでタイミングが必要。
ペリーロードと呼ばれるが、ここにも庶民の生活感が溢れている。 天日干ししてある海藻のそばには大砲が展示してあるのも面白い景観だ。 大砲は1829年製の30ポンド カロネードと記してある。

1829年製の30ポンドカロネード

わずか500mの距離ですが途中に旧澤村邸が平滑川の曲がり角にある。 なまこ壁と伊豆石という下田の特徴的な建築様式の建物で中に入った。 平成20年に下田市に寄贈。 元々、下田の発展に寄与した家柄で、市として歴史的建造物として保存活用している。 玄関に入ると右手に澤村邸の紹介があり、左手の応接間は休憩処になっており若者達が寝転んでいた。 奥座敷には旧澤村家の家具や調度品が当時のまま置かれている。

旧澤村邸

澤村邸の紹介ルーム

平滑川

応接間は休憩処


奥座敷のさらに奥になまこ壁の蔵がある。入口をのぞくと今日は大久保先生と云われる皮革工芸の作品が展示してある。 現代美術家協会の役員として日本文化の発展に寄与した。 休憩を兼ねてその作品群を鑑賞と撮影、妻は足が疲れたと休憩室に。

奥座敷 奥座敷 皮革工芸の作品展


妻は休憩していたが、私が戻ると下田公園に向かう。 公園から見える景観はヨット群や漁船群がそれぞれ停泊。 快晴で風が弱く海面が凪いでいる。 気持ち良い風が緩やかに吹き抜ける。 昔の千石船は最大でも100tほどでペリー提督の乗船した汽船は2400tという。 先程見学した下田海上保安庁の「かの」が350tだから、当時の日本人には異惑星から来たUFOのような存在に見えたと思う。





1500tから2450tの黒船が7隻も湾口に停泊し、それぞれの甲板上には大きな砲身が整然と睨みを利かせていたら、 恐怖にも似た畏怖の思いを抱いたに違いない。 それでも志ある者は、密航してでも進歩した米国に渡りたいと挑戦したのは、幕末も風雲急を告げる時代だった。 湾内が見渡せる下田公園にはペリー提督の胸像と錨があり石碑があった。 そして河津桜で化粧をしてるように見えた。

ペリー上陸の碑は嘉永7年(1854)ペリーと幕府との間で日米和親条約の交渉過程で開港地として下田が提示されペリーは調査船を派遣。 下田港が外洋に近く、安全に接岸できると確認し下田開港が決定。 その場所が下田公園の鼻黒の地で、ここを上陸記念の地としてペリー上陸の碑が建てられた。 錨はアメリカ海軍から寄贈。(記念碑から抜粋)

■ ペリーロード界隈を散策 ■
下田公園から戻る形になるが途中の長楽寺に寄ってみることにした。 長楽寺は日露和親条約の調印が行われた所です。 その前に安直楼があると知り脇道に入る。 電柱の案内板で見つけた史跡は、一軒家の民家で格子の窓から古い建物と判る。 中に入れると書いてあるが、木戸が閉まっているので外観だけの見学になった。 建物の前に説明板があり要約します。

…安直楼は米国総領事ハリスに仕えたお吉が1882年に小料理屋を営んだ建物で、1857年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、 以後、町の人々から蔑まれ、酒におぼれて、やがて姿を消した。 年月を経て、安直楼を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたんだ。 幕末開港の陰に咲いた一輪の花。 お吉は1890年、福生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた。 48歳でした。その後、建物は地元の人が寿司店を経営したが、近年、下田の歴史的建造物を保存し史跡として公開している。 2階にはお吉の遺品が展示されているという。(説明板から抜粋)





安直楼

安直楼からペリーロードを横切る形で今度は長楽寺に向かう。 下田歴史散歩道マップを見ながら散策し、山側にある小道を上がると長楽寺の看板がある。 大変わかりやすいマップだ!


本堂への石段

史跡
本堂

長楽寺は日露条約調印所、日米条約批准交換所と説明書きがある。 安政元年(1854)当寺にて日本とロシア使節海軍中将プチャーチンとの交渉の結果、日露和親条約が締結された。 これにより国境が定まり、択捉島と得撫島の間を国境とし、択捉、国後、歯舞、色丹は日本領になり、 得撫島以北の千島列島はロシアに帰属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。 また日米和親条約批准書の交換も行われたという。(説明板から抜粋)

石仏像が8体並んでる 鐘楼堂

ペリーロードに戻り下田の古い街並みを散策。 了仙寺に戻りお土産店の駐車場に戻った。 妻も歩き疲れたようでお土産店前のバス停ベンチで少し休んだ。

寝姿山 なまこ壁の建物

花で飾られた家前

最後の写真は了仙寺の石版絵を撮影。 この石版絵、とてもよく造られている。 石版絵でこれだけ詳細に濃淡をつけて造られているのを久しぶりに見た。 まるでモノクロ写真のような感じ。 車に戻って駐車場脇のベンチで休憩し、次は下田開国博物館に向かう。

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