■ 下田開国博物館と郷土資料館 ■
…下田から世界に発信した幕末開港の歴史
下田は古くから風待ち港として栄えてきたが、嘉永7年(1854)アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊の来航で、我が国最初の開港場となった。
ペリーが去るとロシア使節プチャーチンが訪れ、北方の国境策定を含んだ日露和親条約を締結した。 翌年にアメリカの総領事ハリスによりアメリカ領事館の開設があり、その後、イギリス、フランス、オランダなどの船も下田に寄港した。


日米修好通商条約の締結によって、開港場の役割が横浜や神戸に移り、ペリー来航から明治維新までわずか15年だったが、 下田の役割は鎖国政策が転機を迎えたことで大きな役割を担った。
下田開国博物館


2007年、ミシュランガイドで下田開国博物館が二つ星に選ばれ、是非寄ってみたかった。 博物館前に駐車したがバス団体も来て館内が賑やか、休憩がてら、少し時間をずらして入館した。 館内の案内を概略すると1号館、2号館に分かれ通路で結ばれ、雰囲気を切らずに通路内を移動でき私達は1号館1階から入館。

下田太鼓祭 色気たっぷり 威勢がよい

1号館の1階は下田の生い立ちと下田太鼓祭が再現されている。 江戸時代の風待港下田は海の関所が置かれ、江戸へ出入するすべての廻船は必ず下田港に寄港しなければならなかった。 港が整備されていたため、これが下田開港になったという。 再現している太鼓橋はそれぞれの陣太鼓を乗せた太鼓台を連ねて太鼓橋を形成している。 そのアーチ状の形は祭りを盛り上げるのに最高で、これに陣太鼓が響き渡る下田の江戸時代を象徴する祭りと思った。

太鼓台を連ねて太鼓橋のアーチ 陣太鼓群

2号館1階には吉田松陰の踏海の企てについてのコーナーがある。 松陰は下田からペリーの黒船で海外へ渡航を図り、多くの若者に強い影響を与えた人物で、 その松陰の伝記を最初に著したのは英国の文豪のスティーヴンスンで、さらに童謡の詩人金子みすゞはこの二人に影響を受けて育ったという。 その3人の縁が展示されている。






1号館の2階は日本写真術の開祖、下岡蓮杖の紹介がある。 開国の地、下田は写真伝来の舞台になった。 写真術は長崎にも蘭学の一部として日本に伝来していたが、黒船の写真師が町中で写真を撮影するのを見て庶民に知られるようなった。 そう考えると下田は庶民が知った西欧文化の窓口でもあったと云える。

蓮杖使用のカメラは蓮杖の弟子船田万太夫が師から譲り受け、明治4年下田で阿波屋写真館を開いた時使用した。 蛇腹式木製の暗箱(29*29*30p)にフランス製径3pのレンズを装着。 現存する唯一の蓮杖使用のカメラ。

江戸城二重橋の映像


下岡蓮杖



2号館2階ではペリー提督の来航について、豊富な遺品や歴史資料を見聞した。 特にハリスの遺品や資料から領事館の役割や生活を知る事ができる。 また、ペリー提督の旗艦ポーハタンは全長253Ft、2415t、乗員300名という巨大な蒸気船だった。 その写真と模型が展示してある。

旗艦ポーハタンの模型




展示に写真の映像が多く、しかも写りがしっかりしている。 当時、乗組員が使用していた望遠鏡などの道具や金子みすゞとの関わりについての展示も多い。 当時のアメリカと日本の間の航路は太平洋でないことを知っていますか。 当時の航路はアメリカは東海岸から出航し喜望峰を回ってインド洋、香港経由で来航した。 その日数は7ヵ月に及んだという。

万延元年(1860)1月には日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府の使節がアメリカに向け出発。 木村摂津守を提督とし、勝海舟が艦長となり、乗組員が日本人だけで咸臨丸を操船して37日間でサンフランシスコに到着した。 一行は見聞を広めて帰国したが福沢諭吉もその一人で、日本の文明開化がスタートした。

遣米使節

米国使節から大名に献上された望遠鏡


また唐人お吉の虚実を明らかにしているコーナーもある。 看護人の名目で総領事ハリスに仕えた唐人お吉、17歳の少女が異人の妾となって人生の歯車を狂わされ、はかなく散ったお吉の物語は有名だ。 ここにはお吉の遺品や古文書が展示してあった。
日本のために誰もが嫌がる外人の侍妾になることに失敗し、のちに入水したお吉。 軍国主義の時代に平和を守るため米国を行脚したが日本でも理解されずカナダで客死した新渡戸稲造。 断首された吉田松陰。 日米交渉を手掛け、安政の大獄で永蟄居され病死した岩瀬忠震などの人物についてが展示されていた。

お吉ペリーとお吉の人形 お吉の肖像画お吉の遺品、ふくさ お吉の遺品、櫛とかんざし

コーナーを移動するとロシアからの黒船の意外と知られていない事を知った。 ロシアとの交流は下田から始まり、 ロシアの黒船ディアナ号の模型や多くの遺品や資料を見聞でき、日露交流の一端を知る事ができる。

ロシア使節のプチャーチンは安政大地震で乗艦ディアナ号を失い困難の中下田に入港した。 長楽寺で日露和親条約が結ばれたが、プチャーチンは伊豆の戸田で幕府から船大工や木材の援助を受け、代船ヘダ号を建造した。 この船は100tほどだが洋式帆船で、幕府は同型艦6隻を建造し、伊豆は洋式造船の発祥の地になった。 造船技術を身につけた船大工は、明治維新を経て日本が近代化へ進む時、全国の造船所で指導的立場となり、造船、海運の近代化に大きく貢献した。

時代は過ぎて、くしくも日露戦争で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破った歴史の流れを見る事ができる。 これだから歴史は思わぬところで繋がっていることに気付かされ、歴史の面白さゆえんではないか!

日露和親条約の資料 ロシア旗艦ディアナ号の模型

ディアナ号はロシア艦隊の中では、現在のフリゲート艦に相当する。 ディアナ号の士官モジャイスキーのカメラは我が国で写真撮影にしようした銀板写真のカメラと作品が展示してある。 銀板写真は焼き増しができないから絵にして残されたという。 展示のカメラはレンズだけ戸田に残されていたものを暗箱部分を復元されたものです。
WEB編集していて気が付いたのが、ロシアのヘダ号の名前はもしかして戸田(へだ)からとった呼称ではないかと思った。 伊豆の穏やかな戸田港の砂浜で建造されたヘダ号の進水式の絵を見ていて気が付いた。 ロシアの使節団が残した遺品に革カバンやラッパ、グラスなどは当時の日本人から見れば興味深い品物に見えたかも知れない。

ディアナ号の遺品のラッパ 復元された銀板写真器プチャーチンの革カバン ヘダ号進水式の様子ロシア皇帝からのグラス

2号館の吹き抜けの部分に大きな千石舟の模型が展示してある。 西欧の船と大きく異なるのが甲板である。 遣唐使の時代にも外国船と日本の船の違いは竜骨と呼ばれる芯柱であった。 日本の船は桶のように芯柱がないから外洋を航行するには無理があった。 時代を経て明治を迎えた頃は甲板によって船の大型化や外洋航行能力が向上していることがわかる。



下田の郷土のお雛様


郷土の和箪笥
郷土品を見学して博物館のお土産コーナーでトイレ休憩して、お土産コーナーでお茶をごちそうになった。 他のコーナーを回って幾つかのお土産を購入した妻は口をモグモグしながらお茶を飲んでいた。


異人の上陸で関係あるお寺を見学するのは、博物館で見聞した後の方が良いと思った。 私は外に出て博物館の建物を撮影。 車に戻ってナビに登録した爪木崎をセットする。

inserted by FC2 system