■ 三嶋大社 ■

民宿を7時半に出発。 昨日通った道路を引き返す形で北に向かった。 今日の目的地は二つあり、最初の目的地は三嶋大社です。 三島市の中央部に位置し到着したのは9時半前。 ナビの便利さをつくづく思う。 駐車場の枝垂桜が満開で咲き誇り妻も喜び、この時期に来て丁度良かったと思う。 最初に駐車場から三嶋大社前の通りに出て大社の大鳥居を撮影。

大社前の通りは開店準備に店主らが立ち回っている。 通過車両は少なく、これからが賑わう感じ。 境内は昔から交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が交差するところです。
枝垂桜が満開 旧下田街道 旧東海道大鳥居

大鳥居前はまだ人並みは少ないが、礼服姿の人々が目についた。 大社は伊豆半島の付け根に位置する三島市の中心部に鎮座している。 三島は国府のあった伊豆国の中心地で、三嶋大社の門前町として発達した。 いつしか地名も大社の由来から三島と云われるようになる。 大社は中世には源頼朝をはじめとして多くの武家から崇敬され、近世では東海道を往来する庶民からも篤く信仰された。

たたり石

三嶋の由来は伊豆大島や三宅島などの伊豆諸島を指すといわれ、伊豆諸島の神が主祭神とされるという。 古くは伊豆諸島の火山噴火を畏れた人々によって篤く崇敬されてきた。 通説で、三島の呼び名は伊豆諸島を尊称して御島に由来するという。 他に伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来する説もある。 それは祭神が二柱あり、大山祇命と積羽八重事代主神を総称して三嶋大明神と称している。 大山祇神社は愛媛県今治市の瀬戸内海の中央に位置する大三島にある。 山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社で、平家、源氏をはじめ多くの武将が武具を奉納し武運長久を祈願した神社です。

たたり石…大社前、旧東海道の中央にあり、行き交う人々の流れを整理する役目を果たしていた。 後に、往来が頻繁になり、これを取り除こうとする度に災いが起こり、「たたり」が崇りに置き換えられた。 大正3年に内務省の道路工事で掘り出され、神社に於いて、ここに据えられたという。 現在では交通安全の霊石として信仰がある。(案内板から引用)

神池 両側の神池をつなぐ石橋

さらに直線状の参詣道の左側に神池が見えてきた。 池の中央の中の島に赤い社があり正面に来て案内を見ると末社の厳島神社とあった。 祭神は市杵嶋姫命で北条政子の勧請と伝わる。 撮影が終了した頃に、礼服の人たちが記念撮影しに来た。 タイミングが良かったと内心ほっとした。 その先に昭和6年に建立された総門を迎えることになる。 神池の反対側にも池があり、駐車場と福太郎茶屋がある。



総門
厳島神社

総門をくぐって奥の境内に入ると右手に宝物殿、芸能殿と続き、神門前、右横に神馬舎が建立されている。 左手には社務所があり、宮史や礼服の人たちがあわただしく動き回っている。 芸能殿は元は総門で安政地震で倒壊した後、慶応4年に再建されたが昭和5年に現在の総門が完成したので移築し、 戦後に一部を改築して芸能殿として保存されたという。 外観から、旧総門には見えなかった。

社務所

神馬舎と腰掛石
宝物殿

芸能殿

…源頼朝、北条政子の腰掛岩
治承4年源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折、腰を掛けて休息したと伝わる石で右側が北条政子が腰掛けた石です。(案内板から記載)

…神馬舎
神馬は慶応4年に完成、旧神馬舎に納められていたが戦後、現在の神馬舎が完成し移したものです。 古くから当社の神馬は毎朝、神様を乗せて箱根山に登るという伝説があり 旧神官はお馬様が帰ったと言って朝食にしたと伝えられ子供の成長と健脚を祈る風習がある。(案内板から記載)

源頼朝、北条政子の腰掛石

神馬舎
神馬舎

神馬

…矢田部式部盛治大人銅像
嘉永7年(1854)の東海大地震で倒壊した社殿を10年の歳月と6677両の巨費を投じて復興し 明治維新は大総督宮の先導警護及び明治天皇の御通行警護に奉仕し、 祇園山腹にトンネルを掘り上流から水を引いて祇園原の荒地15町歩余りを美田と化し 住民の感謝敬慕の念により昭和29年に建立された。(案内板から記載)

矢田部式部盛治大人銅像 手水舎
社務所から官史と巫女が列をなして来た。 今日は結婚式がありそうだ。 その様子を撮影して眺めていると神門を通って境内に入り舞殿に入っていった。 舞殿には家族や親戚が座っている。


神門の脇塀
神門

神門の注連縄

神門をくぐって三嶋大社最奥の境内に入ります。 神門は本殿と同じ時期の慶応3年(1867)に再建され両側に脇門があり、総欅の豪華な造りです。 江戸末期の安政地震で多くの社殿が倒壊し、安政元年(1854)に再建が開始され慶応2年(1866)に落成した。

最初に目につくのが正面に美しい舞殿がある。 舞殿は昔は祓殿と呼ばれ神楽祈祷の場だったが、後に舞の奉納がメインになったので舞殿と称する。 現在は舞のほかいろいろな神事でも使われ、結婚式なども、ここで行われる。 舞殿の装飾彫刻も見事です。

神門から撮影

…天然記念物 三島大社の金木犀
舞殿の右手に高さ10m、目通り周囲4mの大きな金木犀がある。 大きいから枝部分が添え木され、その周囲が柵で囲まれていた。 金木犀は国の天然記念物に指定されている。 自宅にある金木犀は秋口になると黄金色の小さな花を咲かせる。 神々しい御神木も秋口に満開になると、さぞ見応えのある御神木になるだろう。


金木犀を周囲から撮影していたら観光客がぞろぞろとやってきて賑やかになった。 これを機会に反対側の境内をめぐる。 神門の袖塀の端に客殿があった。 御朱印はここで、の案内がある。 ここに三嶋神社の古い扁額が展示してあった。 素木のままなので目視ではよくわかるが撮影した映像でははっきりしなかった。

…若宮神社は古くは八幡宮若宮神社と呼ばれ、御祭神は物忌奈乃命(三島大社の御子神)、誉田別命(応神天皇)、神功皇后妃大神を祀る社です。 見目神社(摂社)は三嶋神の后神で見目(みめ)とは御妃(みめ)を意味するという。 古くは幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀式が行われたという。

見目神社(摂社) 三嶋神社の扁額東五社 若宮神社西五社
周囲の摂社や神木などを撮影後、社殿の撮影を始める。 最初は舞殿を周囲から撮影するが周囲に観光客がいるため中々良い構図が取れなかった。 人が少なくなり、動きが無い時を狙って撮影する。
授受所

舞殿
舞殿

舞殿と後方に拝殿

この後、拝殿、幣殿、本殿の撮影するが、これまた一工夫が必要だ。 社殿形式は寛永年間(1624-1645)の三代将軍徳川家光造営の社殿を踏襲している。 本殿は三間社流造りで銅瓦葺き、幣殿は一重両下造りで銅瓦葺き、 拝殿は一重入母屋造りで正面は千鳥破風付き、向拝三間は軒唐破風付きで銅瓦葺きの社殿です。 本殿、幣殿、拝殿とも総欅素木造りで大きな社殿でした。

角度を変えて撮影 拝殿

拝殿、幣殿、本殿


2020年5月撮影

さらに仔細に見ようと部分撮影を続ける。 要所に装飾彫刻が施されているが素木のため重厚な感じがする。 江戸を代表する建築物で国重文に指定。 三嶋大社が重厚なイメージでいうなら、先月歴訪した浅間神社は朱色が際立ち神聖な感じがする。

三間社流造りで銅瓦葺きの本殿

正面は千鳥破風付きの拝殿

要所に施された装飾彫刻

本殿

拝殿向拝の内側

流鏑馬の馬場

授受所の横から出ると流鏑馬の馬場が一直線に通っている。 駐車場に戻った時は満車状態で入口に駐車待ちの車が列をなしていた。 一番奥に駐車したから出るまでが一苦労した。 ここから最後の観光場所の柿田川湧水群に向かう。

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