■ 古都鎌倉の歴史散歩 ■
金沢街道を浄妙寺から六浦に向かい明王院に向かう。 バスや車が行き交う道路端をひたすら歩く。 単独やグループの観光客や地元の人と擦れ違いながら狭い歩道エリアを歩くが道路は交通量が多い。 高い建物は無く町中の奥には山が迫り、鎌倉特有の地形に沿って市街地が伸びている。
観光案内図に、この先は五大堂明王院、十二所神社、光触寺があり、その中から五大堂明王院を選択。 日差しが強く反対側の日蔭を歩きたいが市街地を歴史散歩する。


■ 五大堂明王院と鎌倉最古仏地 杉本寺へ ■
鎌倉散策で気が付いたのは交通事情に対して道路の整備が追い付いていない。 広い道路が少なく、狭い道路に敷地がべったりこびりついている感じだ。 泉水橋交差点のすぐ先に明王院があるはずだが通り越してコンビニまで来て場所を聞いた。 やはりその通りで滑川を少し戻った所に明王院があった。(感謝!)



滑川に沿って少し戻る


街道から脇道に入り正面が明王院

■ 五大堂明王院 ■
明王院は真言宗御室派の寺院で本尊は五大明王です。 1231年(寛喜3年)鎌倉幕府四代将軍藤原頼経によって発願され鶴岡八幡宮の別当によって開山した。 しかし寛永年間の江戸時代初期に火災で焼失し、のちに再建。 本尊は不動明王を中心に五大明王像が安置されているが、木造不動明王坐像(国重文)だけが鎌倉時代のもので、他の四像はのちの造立です。

明王院の石柱

撮影禁止札
明王院の門柱

仕方なく望遠で…

境内に入ると中々旅愁を感じる。石段を上がろうとしたら、境内撮影禁止札があり愕然とする。 要するに、この先撮影禁止という事らしい。 仕方なく左手に子供たちが遊んでいる広場に移動して、ここからの撮影をした。 田舎のお寺の雰囲気で良い印象だったが、撮影に対して、よほど嫌な事があったか、マナー違反があったか残念に思う。 お寺の背景には石崖が迫り初秋の雰囲気は良かった。



明王院の裏には石崖が迫る


長い間歩いて明王院に訪問した割にはすぐ戻る形になった。 金沢街道、最後のお寺は鎌倉最古の杉本寺で、期待を膨らませて向かった。 鶴岡八幡宮に戻る形で再びテクテク歩く。 暫く歩くと街道にいきなり石段が接する杉本寺前に到着した。 入口を撮影しようと車の流れを見ていたらバスが停車した。 暫くしてバスが過ぎ去ると、入口に結構年配の老夫婦が杉本寺の石段を上がっていく姿が目についた。 一段、一段ゆっくりと上がって行った。 私自身、この先、石段があるとは思ってもみなかった…。



また石段を上がる
また石段…

やっと仁王門に…

入口の先で200円を支払い、拝仏券を貰う。 この拝仏券、後ほど感激を味わうことになった。 年配の老夫婦を追い越して先に撮影をする。 仁王門も久しぶりで、古刹らしい仁王像の撮影をした。 仁王門をくぐるとまた石段があり、その先にも石段が続く。(アッチャー!)



仁王門をくぐるとまた石段が続く


■ 杉本寺 ■
仁王門は江戸時代の18世紀中頃の建立で切妻造り、八脚門で左右に金剛力士像が安置されている。 天台宗の寺院で、本尊は十一面観音像を安置して創建されている。 行基が734年(文治5年)に十一面観音像を安置して創建し、鎌倉最古の寺になっている。 三体の秘仏本尊三尊同級の十一面観音像は国宝、国重文に指定されている。 1189年(文治5年)堂宇が焼失したが秘仏は確保され、1191年(建久2年)に源頼朝が参拝し修理料を寄進した。

仁王門と苔の階段の間に右手に大蔵弁財天堂がある。 大きな蔵が建つほど富に恵まれるという。 そして正面の石段を登ろうとしたら竹柵で囲われていて、その横に石段がある。 この石段、相当踏み削られて波打っていた。苔の階段と云われ保存してるようだ。

大蔵弁財天


苔の階段
大蔵弁財天堂

階段は竹柵で通行止め 左手の石段をどうぞ…

と云う訳で、左手の石段を登って行くと、やがて本堂が見えてきました。 この本堂全体を拝見して結構年数が経っている。 あの年配のご老夫婦も一歩、一歩登ってくるのだろう。 鎌倉の歴史を堪能出来そう。

■ 杉本寺の歴史
本堂は観音堂とも呼ばれ、寄棟造り、茅葺き、方五間の密室仏堂で、1678年(延宝6年)の建立です。 本堂内に入ると中央に源頼朝が寄進したと伝わる前立十一面観音像があり、両側に昭和期の住職が造像した新十一面観音像、観音三十三応現身像、 毘沙門天立像、二体の地蔵菩薩立像が安置されている。 中央の前立十一面観音像の裏側に回ると、最奥に、格子戸に仕切られて三体の十一面観音立像(二体が国重文)が安置。



本堂


五輪塔群

拝観券を渡して堂内に上がる。 堂宇内は撮影禁止の立札があり、恐ろしく厳正な雰囲気が漂う。 毎月1日と18日に、本殿内の秘仏が御開帳とあってタイミング良く秘仏を拝観できる。 中央の源頼朝が寄進したと伝わる前立十一面観音像前に座り、開経偈、般若心経、十三仏真言を唱える。 この後、堂内の仏像を拝観して、最奥に格子戸で仕切られた秘仏三体前に座り、再度、開経偈、般若心経、十三仏真言を唱えた。 間近での拝観はできないが、読経していると周囲のざわめきが聞えず静寂の中で一人、読経してる気持ちになる。



本堂
鐘楼

方五間の本堂奥に本殿

拝観が終わり、方五間の密室仏堂の奥にある本殿を確認。 ここに秘仏が安置されてのだろう。 本堂の背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将、鎌倉府執事の斯波家永が拠ったが、 南朝方の北畠顕家に攻められて杉本寺で自害したと伝わる。 お城があったと知り急な石段も納得する。

熊野権現神社

金沢街道の風景


下山は別路があり竹柵で囲まれている。 石段を下りながら、周囲の風景を撮影。 金沢街道が山に挟まれ狭隘な状況が良く見え鎌倉らしい地を見る事ができる。 杉本寺から次に向かうは鶴岡八幡宮の東北に位置する鎌倉宮、荏柄天神社、白旗神社内にある源頼朝墓所へ向かう。

鎌倉宮の先は天台山のある天園ハイキングコースがあり道路は行き止まりです。 ハイキングコースは建長寺の半僧坊にでるが、鎌倉を取り巻く山々の尾根を伝うコースで結構人気が高い。


■ 古都鎌倉の歴史散歩 ■

武家社会から天皇を中心とした世に戻すため建武の中興に尽力した護良親王の功績をたたえ、 東光寺跡地に、明治天皇は護良親王を祀る鎌倉宮の造営を命じた。 その後、完成後の明治6年に天皇は行幸したという。

観光案内図には鎌倉宮と大塔宮の両方が記され繋がった名称と思ったが訪れてみると大塔宮は別名と云う事だった。


■ 鎌倉宮、荏柄天神社から頼朝の墓に参拝して小町通り ■
後半は鎌倉宮から始まる。 杉本寺から金沢街道を鶴岡八幡宮に向かって、すぐ右に入る道がある。 この小路を進むと水路がある。これに沿って進み、標識の通りに向かうと鎌倉宮に到着。 特に目立ったのが行き交うレンタサイクルの多さです。 鎌倉宮の前は車道で交通量を確認して宮の正面から大鳥居を撮影。

鎌倉らしい小路

境内は広く砂利が敷かれている。 大鳥居横にバスが停車している。 このバス、定期遊覧バスで一定コースを周遊して一日の観光を楽しめるようだ。 またコースが複数あり、観光客が選択できるようになっている。 見学を自分でプランするのが面倒な人や初めての人には人気のようです。

鎌倉宮大鳥居

砂利を踏みしめて鎌倉宮に向かう。 二つ目の鳥居の前を小路が通っている。 左手前に手水舎があり、ここでお清めをする。 作法はお寺と大差ない。 そして鳥居をくぐると正面に鎌倉宮が鎮座している。 右手に鎌倉宮の『厄割り石』がある。かわらけに息を吹きかけ厄割り石にて割り、厄(わるいもの)を祓って健康にお過ごしください。 と、記してある。

次の鳥居

鎌倉宮正面
手水舎

厄割り石

厄割り石…かわらけ一枚100円で購入し、右手の大石に当てて割るようです。 家族連れがしているのを見て、その奥にある拝観受付まで向かう。 右手に入口があり入るか考えてしまった。 足のふくらはぎが張ってきてくたびれているのがわかり、座って休みたいのも本音だ! 今日は一度もベンチに腰掛けもしてなくどこかで休憩したい。

かわらけ

拝観受付所


鎌倉宮

■ 鎌倉宮(大塔宮)の歴史
祭神の護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父と共に鎌倉幕府を倒し建武の中興を実現したが、 その後、足利尊氏との対立によって、足利方に捕えられ東光寺に幽閉され1335年(建武2年)に殺された。 鎌倉宮の後方には土牢があり土窟で二段になっているが、この付近に牢屋の御所があったと思われる。

この位置が美しい鎌倉宮

武将の石像
村上社

村上社…
鎌倉宮の身代り様と云われ、自身や家族の気になる所を撫でてお祈りくださいと記され、厄除け、病気平癒を祈願します。

日陰の所でベンチに座って休憩する。 何処かで昼食も取りたい。 水分補給し観光案内と睨めっこして宮内には入らないことにする。 代わりに鎌倉宮のパンフレットを読んで歴史認識した。

大休憩後、荏柄天神社に向かうが、近いのに小路が入りまじり、同じ道を行ったり来たりで時間が掛かってしまった。 たどり着いた所が、このような珍しい景観でした。 鳥居の周りを隠すように大樹が櫓で仕えられている。 撮影後、何とか鳥居を入れて撮影したく地面にデジカメを置き撮影した映像がこれです。

荏柄天神社の珍しい入口

鳥居と参詣道

正門

細長い参道の横には気に入ったお洒落な食事処がある。 正面に長い石段が続き門が見える。 門に近くなり目線に荏柄天神社が見えたので撮影。 右手に手水舎があり、その右奥に御輿蔵がある。

正門から境内を見る

御輿蔵
手水舎

本殿

■ 荏柄天神社の歴史
古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と並んで、日本三大天神のひとつに数えられている。 源頼朝が現在の雪ノ下に幕府を開くと、1104年(長治元年)、その鬼門の方向の守護社として創建された。 祭神は木造天神座像で、その後、徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営にあたった。 境内は国の史跡で、本殿は国重文です。


境内の大樹

境内授受所前の大樹を囲むように各種御守りが展示してある。 その傍らで若い女性がテーブルに向かって一心不乱に書き物をしている。 長い時間だったので、何をしているのか興味を持ったが、失礼にあたるので遠慮した。

『かっぱ筆塚、絵筆塚』

本殿の左手に古神札納め所があり、左手に「かっぱ筆塚、絵筆塚」がある。 案内では河童の漫画を描き続けた清水 崑氏が愛用の絵筆を供養し、昭和46年に建てたかっぱ筆塚です。 毎年10月には古筆を供養する絵筆塚祭がある。 「かっぱ筆塚、絵筆塚」には日本漫画家協会に所属していた有志が154枚のかっぱのレリーフが貼ってある。

■ 荏柄天神社の歴史
本殿は三間社流造り、銅板葺きで、1624年(寛永元年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築したものです。 若宮旧本殿は1315年の鎌倉大火の後、翌年に建立されたという。 その後、中世、近世を通じてたびたび修理がおこなわれているが、社殿全体が再建された記録が無い。 移築と度重なる修理だが、鎌倉における中世建築の稀少な遺構です。 関東大震災で被害を受け、幣殿と拝殿は震災以降の再建です。

拝殿を横から撮影。 この奥に幣殿、本殿が繋がっている。 今回は樹木に遮られてうまく撮影できなかった。



鶴岡八幡宮に向かう道(右手に小学校)

推定樹齢900年の大銀杏
源頼朝の墓所に向かう道

荏柄天神社を出て最後に向かうは白旗神社内にある源頼朝の墓所に向かう。 鶴岡八幡宮に向かい、途中の小路を右折すると真正面に墓所がある。 頼朝の墓所は白旗神社の境内にある。 一番最初に鎌倉に来た時に白旗神社には訪問しているが、その時は墓所には行かなかった。



源頼朝の墓所入口
墓所そばに白旗明神

石段を上がると…

■ 源頼朝の墓所の歴史
現在の石塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩主、島津重豪が建てたもので、明治に入ると廃仏毀釈で石塔そばにあった法華堂は取り壊された。 1872年(明治5年)に跡地に頼朝を祀る白旗神社が建立された。 その後、石塔は法華堂跡(源頼朝の墓所)として国の史跡に指定された。

源頼朝の墓所

鎌倉幕府の初代征夷大将軍となった頼朝は、河内源氏の義朝の三男として生まれ、奥州を含めて全国を平定した。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、幕府による武家政権は王政復古まで足かけ約680年間に渡り存続することになる。


源頼朝の石塔

墓所から鶴岡八幡宮はすぐそば。 舞殿前は多くの観光客で大賑わいだった。 人の流れが途切れず、二の鳥居から八幡宮の石段上まで続いている。 先程の静寂さと厳正さは消え、現実に引き戻された。

小路から…

鶴岡八幡宮と参詣道
八幡宮の馬場へ

鶴岡八幡宮と参詣道(遠方から望遠で…)

さて、八幡宮から鎌倉駅に向かうが、途中まで若宮大路を、それから小町通りを通り駅に向かう。 どちらも観光客との擦れ違いが大変で中々前に進めない。 駅前ロータリーまでたどり着きリュックをベンチに下ろして汗ばんだ背中の服に風を通す。 『あぁ!心地よい!』 空腹感を通り過ぎて今日は昼食抜き。

若宮大路 小町通り
喫煙するためJR地下通路を通り西口へ移動して喫煙場所のベンチに腰を下ろした。 脹脛が心地よい痛みを感じる。暫しベンチに腰掛けて休憩後帰路となった。 撮影した映像は260数枚に達した。
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