■ 世界遺産、元離宮 二条城の歴訪 ■

22日金曜日21時に自宅を出発。 環八は比較的空いて東京ICから東名道に、御殿場から第二東名を経由して豊田JCTで伊勢湾岸道を走行。 名古屋港は、この高さから夜景も綺麗に見える。 四日市JCTから第二名神道を走り、大津SA手前の草津PAで仮眠。
翌朝6時過ぎに出発。 京都南ICまで27qを30分ほどで走り、京都市内を京都南ICで下りて二条城まで約8q走行して二条城前駐車場入口に到着。


二条城の駐車場に到着した時、係員から開城の時間が8時45分と教えて貰う。 すでに到着した人々が車内で待機したり門前をウロウロしていた。 まだ陽光は低くジョギング姿も多い。 東大手門を撮影し、寒いので着込んで二条城の周囲を散策する。 準備が整って東大手門からスタートする時は朝日があたり再撮影して東南隅櫓に向かった。

日差しの当たった東大手門 東大手門の家紋瓦

東南隅櫓の角で撮影するが朝日はまだ弱い。 二条城について歴史を調べたら足利義輝時代の二条御所武衛陣の御構え、 足利義昭時代の二条城、織田信長時代の誠仁親王の二条新御所と続いて徳川幕府の二条城と続いている。 江戸幕府の二条城は現在地だが、それまでの二条城の場所は異なる。 二条城について新しい発見をした気分。

東南隅櫓

東南隅櫓
南側外濠

東南隅櫓から東大手門方向

濠に沿って歩くが沿道の紅葉樹も寒そうな感じ。 外濠の水面もガラスのように波一つない寒さを感じる景色だ。 東南隅櫓から先に南門があり、この門は大正4年に大正天皇即位の儀式の時に造られた門で、家康の時代には無い。 二条城は三代将軍家光時代に拡張され、石垣の一部が直線でなく、拡張された石垣も高くなる。

日差しがあれば…

南門
家光時代に拡張された名残?

西南隅櫓

鉤型の石垣の先の西南隅櫓の角まで来た。 現在の規模になったのは三代将軍家光の時代で、初期の二条城は現在の東側半分ほどだった。 縄張りは将軍滞在の城としては規模も小さく防御に難があると家臣が疑問を呈したが、 家康は1日、2日持ちこたえれば援軍が来るし、万が一、この城が落ちた時、取り返すのに手間がかかるとの逸話もある。 豊臣秀頼も成長し、必ずしも天下安泰の状況ではなかった家康の心情が窺える。

西側の外濠に西門(埋門)が造られ石垣も門に向かって堤が突き出ている。 太陽が上がるにつれて雲間から差し込む日差しが照らしたり曇ったりで、この時間帯は撮影しても映像が逆光で良くない。

西南隅櫓

西門(埋門)と突き出た堤

外濠
西側の通り

西北側から見た北側の外濠

外濠の紅葉樹

北側の外濠を歩く。 陽光が逆光で紅葉したモミジが美しい。 石垣上の土手には本来、塀が造られていたが、あると無いとでは景観が大きく異なる。 そして北大手門に到着。 造りは東大手門と同じで、もうすぐ東大手門が改修される時期に、ここが出入口になると係員から聞いた。

北大手門を回って駐車場側に戻った。 この時間帯になると朝陽が差してきた。 石垣に朝陽があたり美しい映像が撮れた。 道路の街路樹も紅葉が映えてきた。 通る車の量も多くなり、駐車場にいたバスは1台もいなくなった。 観光客を迎えにホテルへ向かったに違いない。



徐々に明るくなる東側の外濠
北大手門

東北角から見た北大手門

二条城を一回りしてスタート地点に戻ったが、トイレの場所を聞いたら南側にあると聞き再び外濠を歩く。 トイレに向かうと先程とは違った景観で再度撮影し直す。 陽光にあたると映えた映像になる。 トイレから戻って東大手門前に到着すると入口前には10人ほどの行列が出来ていた。 まだ開城前だが、門は開いたので再度撮影し行列に加わった。

南門

東南隅櫓

東大手門
東南隅櫓



東大手門

私達と同世代が多く、後にも続々と観光客が続く。 その隙間をレンタサイクルと思われる外国人やカップルが通過するので係員が交通整理している。
歩道幅があるが走ってきた自転車と人が交差した。 自転車はひっくり返り、人は腕を抑えてうずくまった。 一瞬張りつめたような空気が流れたが、係員が列の形を一列に整理しだした。 自転車に乗った女性はすみませんと言いながら立ち去ったがスピードが出ていたから相当擦りむいたはずだ。 何処にも無茶する人がいる事を…
開城5分前でチケットの販売が始まった。 スタートダッシュで事故の無い様に、皆さ〜ん転ばないように…。


■ 二条城の二の丸御殿 ■

二条城は城跡が国の史跡に指定され、二の丸御殿のすべての建物が国宝に指定。 その他に城跡内の22棟の建物が重要文化財に指定されている。 建物内の多くの障壁画も重要文化財に指定され、二の丸御殿の庭園も特別名勝に指定され日本の宝がここにある。 1994年(平成6年)に世界遺産に登録された。


…東大手門は国重文の櫓門で本瓦葺きの屋根を持ち、棟には鯱が飾られている。 その下の妻は木連格子があり、石垣と石垣の間に渡櫓を渡した形式です。 8時45分に開城して先頭から人々がなだれ込んでいく。 私も少し遅れて陽光を浴びる二の丸御殿に向かった。

東大手門

番所
二の丸御殿を囲む高い築地塀

内側から見る東大手門

番所は二条城の警備をおこなう為に江戸から派遣された武士が常駐した所で、毎年、2組100名が交代して警備した。 番所としては細長い建物で正面は十間、奥行き三間ある。 江戸城の番所と同様で貴重な遺構です。

二の丸御殿を囲む築地塀と入口の唐門は国重文で、切妻造桧皮葺きの四脚門は唐破風造りで荘厳さと煌びやかさで威風堂々としていた。 観光客が唐門前で記念撮影してる内に唐門の正面撮影と斜め撮影を終えて、二の丸御殿内に入った。 多くの人が離れて全景を撮影してるから周りに人はいるが誰もいない景観を撮影できた。

斜めからの唐門

二の丸御殿(国宝)
正面からの唐門

遠侍と車寄(国宝)

二条城の概要について学んだ。 それによると建物は江戸時代の武家風書院造りで正面の一番目立つ車寄に続いて 遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟が連なるように建てられている。 全ての建物の面積は3300uもあり、最後に建物内を見学した時も相当長く歩いたと感じた。 さらに部屋数も33室あり、畳で勘定すると800畳もある。

車寄の彫刻は欄間彫刻は表裏デザインが異なる。 表側は5羽の鸞鳥(らんちょう)、松、牡丹が、上方に雲、下方に笹を配している。 屋根は桧皮葺きで床は牛車で中に入れるようになっている。

二つの釣鐘は幕末の政変時、二条城と北側にある京都所司代との連絡に使われた。 両方に設置して幕末の混乱の中、朝廷側の動向に備え、鳥羽伏見の戦いなど非常時の連絡に使われた。 明治後も京都府が置かれた時期も非常時に備えて置かれていた。(案内板から引用)



南門そばの仕切り塀
二つの釣鐘

仕切り塀の奥は桜の園が続く

一通り撮影に満足して見回し妻はどこ? 妻とはぐれてしまった。 唐門を出て暫く探して妻と合流。 どうも撮影対象が異なるようで、今のうちに記念撮影をしようと御殿内に入り、そばにいた家族に撮影を頼んだ! 2、3枚シャッターを押して貰って、今度はその家族を撮影してあげる。

唐門に繋がる築地塀の装飾塀

切妻造檜皮葺きの菊花紋
唐門の切妻造檜皮葺き唐破風造り

唐破風造りの菊花紋
唐門の装飾部や車寄の装飾部を撮影して今度は一緒に見学。 車寄前の広場は多くの観光客で賑わっている。 今のうちに二の丸御殿の庭園に向かう事にする。 ここまで要した時間は20分。
唐門の内側

遠侍の屋根飾り
車寄の屋根飾り

二の丸庭園へ

二の丸庭園に入り、この先は庭園と連なった二の丸御殿の外観を鑑賞。 最初に手入れされた庭園から始まり先に進むと、二の丸御殿大広間が優雅な姿を見せてくれる。 左に庭園を見て、右に国宝の二の丸御殿を鑑賞する。 大広間は諸大名が将軍と対面した屋敷で二の丸御殿の中で格式の高いところです。 また、1867年(慶応3年)に15代将軍慶喜が各藩の重臣を集め、大政奉還を伝えた場所だという。 実際に大広間を歩いたが歴史の転換の伝達がおこなわれた場所を自分の足で立っていることを実感。





二の丸御殿大広間

庭園を先に進むと正面に遠侍の御殿が見えてくる。 二の丸御殿の車寄から続く遠侍は一番高く見える建物で、棟は南北に向かい入母屋造り、瓦葺きの建物で登城した大名や家臣の控えの場となっている。 遠侍に続く御殿は式台と呼ばれ参上した大名が老中と挨拶を交わした場所で、献上品などもここで取次された。



式台の間(中央)
遠侍の御殿(右側)

大広間

各御殿が廊下で繋がれ、その先に黒書院と呼ばれる御殿が見えてきた。 いずれも御殿に沿って庭園がどこからも鑑賞できるように造園されている。 初期の庭園は家康時代に造園され書院造りに調和させて神仙蓬莱の世界を表現したと伝わる。 三代将軍家光の時代から十四代将軍家茂が上洛するまでは将軍不在となった。 最後の慶喜が上洛した時は樹木が無く池は枯渇して荒廃していた。 大政奉還後、所管が変わり今は京都市に下腸されて二の丸庭園は生まれ変わり国の特別名勝に指定され、 現在では多くの観光客を楽しませている。

黒書院




庭園の横、黒書院のそばに蘇鉄の養生が見られた。 蘇鉄は寒さに弱く、例年この時期になると稲わらで化粧まわしがつけられる。 冬の風物詩を感じる景観でその姿も美しい。


庭園を通り過ぎて…
蘇鉄の養生

…二の丸御殿の最奥にある白書院が見えてきた

庭園を通り過ぎて二の丸御殿の最奥にある白書院が見えてきた。 ここは将軍の居間、寝室で内部の装飾も他の御殿と趣向が異なるという。 他の御殿と比較して小さい屋敷に見えたが内部を見学したら、やはり豪華だった。 これ、庶民のひがみです。 ここに住んだら人間社会からかけ離れているよう。 二の丸御殿から次の見学コースは竹垣に誘われて、家光時代に造営された本丸に向かう。

白書院




竹垣を出ると視界が開けて本丸御殿の正面に出る。 本丸櫓殿前で撮影するには観光客が多すぎて暫く時間が掛かった。 本丸の内濠は外濠と同じ規模で、伯父の家康を深く尊敬した三代将軍家光の時代に拡張された。 それにより外濠の南北側の石垣が直線でない。

■三代将軍家光について
徳川三代将軍家光は家康を深く尊敬したといわれ、日光にある自分の大猷院霊廟は東照宮の方向を向いて建立した。 また、家光の母は戦国武将の浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であり、家光誕生後は福が乳母となった。 福は後の春日局で一時期、大奥を仕切った。 まだ存命の家康とも懇意で三代将軍への布石にも動いたという歴史のつながりを見ることになる。

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