■ 駆け込み寺 東慶寺 ■
輪行バイクの旅に嵌まって、今回の旅は三浦半島を自転車で巡る旅。 池袋から湘南新宿ラインに乗車して北鎌倉駅を目指し、 輪行手段の経験を積み重ねて大きな旅をプランするためにも実践が大切と思う。 早朝6時過ぎに自宅を出発して北鎌倉駅には8時過ぎに到着。 古都鎌倉散策の第四弾は鎌倉時代から続く縁切り寺法の確立した東慶寺を歴訪。 北鎌倉駅で下車すると多くの観光客が円覚寺方面の改札口に流れていき、空いたホームを反対側の改札口に向かう。


駅前広場で自転車を組立て、デジカメを取り出し準備完了です。 北鎌倉駅舎を撮影して自転車を引っ張り、すぐそばの東慶寺に向かった。 道路は車の流れも多くなり、それと同じぐらい自転車ライダーが多かった。 その自転車もスポーティなものから折り畳みの自転車も見ることが出来る。 車に分解して積み、目的地で周回してくるのだろう。 車と自転車の醍醐味を楽しむことが出来る。

 8時50分 北鎌倉駅舎 駅前道路

駅から自転車を転がして4分ほどで東慶寺前に到着した。 入口で掃除をしている係員に自転車の置き場所を聞いて自転車を寄せ、正面からの東慶寺を撮影する。 道路側から眺めると鎌倉を囲む山に向かって境内が伸びている。 鎌倉のお寺の最大の特徴と言ってよいだろう。 石畳の敷かれた境内の奥に石段に導かれ山門が視認できる。 江戸時代は道に面した所に大門があり、現在の山門は中門と呼ばれ、男子禁制の結界だったという。 車路は右方向にアスファルトが伸びている。

東慶寺入口

茅葺きと竹で組まれている質素な山門をくぐると右手に受付がある。 境内が細く狭いので三脚は禁止と案内があり「大本山円覚寺百観音霊場第七番札所」の大きな看板が掲げられている。 参観料は200円でSuicaやPASMOでも支払うことが出来る。(かっこい〜い!)
山門を入り左手に鐘楼があり、この時期、新緑に囲まれて風情がある。 右手に塀を隔てて書院を見ることが出来るが非公開です。 奥に進み鐘楼の奥に茶室寒雲亭が竹塀に囲まれてあるが、これも非公開で残念!

山門

書院の入口門
左手に鐘楼

鐘楼付近

境内は奥に一直線に進んで左手に茶室寒雲亭の門を見て、右側に本堂の入口が見えた。 快晴で撮影した映像が鮮明で嬉しいところだ! 本堂前から撮影後、右手に非公開の書院を見ることが出来る。 書院は江戸時代前期に移築された建物だったが関東大震災で倒壊したため大正末期に再建された。 現在は茶室や書院は色々な行事で使われ、その時だけ入れるわけだ!

一直線の参道

本堂入口門
茶室寒雲亭の入口

本堂泰平殿

本堂は関東大震災で倒壊し、その後に再建されたという。 本堂泰平殿は美しい宝形造の屋根で、堂前に佇むと堂内中央に釈迦如来座像が安置されている。 釈迦如来坐像は火災などで被災したが、その都度、仏師の修理によって現在に至るとあった。 釈迦如来のお顔は優しい慈悲あるお顔です。 ここで般若心経を読経。

 書院



釈迦如来坐像

本堂内から中門を出た所に金仏像が安置されている。 境内中央にあり、山門から遠いが見ることが出来る。 青銅製の金仏像から先は墓苑になっていて山裾に伸びている。 金仏像の奥に花菖蒲が咲いている。 その左側に茶室の白蓮舎があるが非公開となっている。 墓苑に向かうと右側に1978年に鉄筋コンクリートで、土蔵様式で新築された松岡宝蔵があり、別料金で東慶寺の文化財が展示されてる。 宝蔵が建てられる前は方丈があったという。

 泰平殿の周囲

青銅製の金仏像


金仏像の後側に花菖蒲が広がる

花菖蒲を過ぎると右側に石囲いの水場と思われるものがあり、墓苑は坂道を登るようになった。 水場の先からは東慶寺には著名な墓石が見られる。 撮影はしなかったが、私でも知っている著名人のお墓が幾つか見受けられた。 お墓を縫う様にして高台に行き、反対側の墓苑が見渡せる位置に来た。 観光客が石段を降りて来たので私もそちらに向かってみる。

 花菖蒲

松岡宝蔵前の樹


石囲いの水場?

坂の途中で右側に石段が上に続いて東慶寺所縁の墓所がある。 一部柵で囲まれているところは宮内庁が管理してるという。 石段は二列あり、古い石段の方は歴代住持の墓があり、新しい石段の方は囲いがしてあり、宮内庁の管理区域と云う事。 宮内庁の管理区域には皇室、皇女用堂尼の墓がある。 墓はやぐらの中にあり右側の奥の墓が用堂尼の墓です。

源氏山公園に続く坂道のひとつ

右の石段が宮内庁管理区域


用堂尼の墓

古い石段から登った正面に天秀尼の墓で一番大きな無縫塔がある。 右には用堂尼のやぐらと並んで開山した覚山尼のやぐらがあり供養塔があった。 管理区域と言っても簡単な柵があるだけで出入りは自由です。 天秀尼の無縫塔の左には台月院の宝篋印塔があり、さらに左には二十一世永山尼の無縫塔が続く。

用堂尼の墓

天秀尼の墓で一番大きな無縫塔

■駆け込み寺として…
弘安8年(1285年)、北条時宗夫人の覚山志道尼が開創した。 女性の側から離婚できなかった封建時代、東慶寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、明治に至るまで約600年間、縁切り寺法を守ってきた。

開山した覚山尼の供養塔

明治4年(1871年)廃仏毀釈によって、この寺法は廃止となり、明治35年(1902年)、尼寺としての歴史に幕を閉じた。 現在、東慶寺は円覚寺派のお寺だが開山以来、明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺だった事を知る。 女性の離婚に対する裁判の役割を担い、当時の女性の地位が低く見られ、困難な状況だったことが窺えました。
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