■ 日光のパワースポット瀧尾神社 ■

瀧尾神社の歴史を調べたら、820年(弘仁11年)に弘法大師 空海が建立したと伝わる。 かつては二荒山神社の新宮と本社神社とともに日光三社権現のひとつで六十六部聖が法華経を納める聖地だったが、現在は二荒山神社の別宮になっている。


東照宮が遷座されるまで日光参詣の中心地は瀧尾神社や本宮神社だったが江戸幕府が威信をかけて日光を再開発した。 これにより日光の景観がすっかり変貌したという。 瀧尾神社や四本竜寺や本宮神社は東照宮や二荒山神社、輪王寺のような立派な建物は無いが、 修験道時代から続く長い歴史の中で、不思議なパワーがあり現代の人々が癒される。

開山堂から先に進むと石畳のそばに「これより瀧尾道」の石碑がある。 暫く進むと北野神社を見つけた。 北尾神社は学問の神、菅原道真を祀る、1661年、筑紫安楽寺の大鳥居信由が勧請し、鳥居や苔むした祠の後背の巨岩に天満宮の梅鉢紋が見られる。

東照宮社務所から開山堂までの石畳

瀧尾神社に続く石畳

北野神社鳥居

苔むした祠の後背に巨石が…
これより瀧尾道

北野神社

鳥居をくぐると祠が…

石畳を歩くと日光の史跡探勝路と書かれた案内があったが、煌びやかな日光東照宮などの社寺だけでなく、 それ以前の修験道時代から続く長い歴史を見ることができる。 この後、暫く歩いたが車を置きっぱなしに気が付き車に戻ることにした。 車を進めて石畳に沿って走ると広い駐車場に着いた。 15台くらい駐車できそうです。 ここは瀧尾神社のそばに到着したようだ。 ここから少し戻る形で石畳を歩くと仏岩の仏頭を見つける。 北野神社のそばまで戻ったようで仏頭は壊された十王像と大日如来、地蔵像が並んでいる。

仏岩の仏頭(十王像と大日如来、地蔵像)




石畳を北に進んで瀧尾神社に戻り、入口から瀧尾神社の撮影に…。 駐車場の横に瀧尾高徳水神社がある。 由来を見ると奈良の奥吉野の水の宗社、丹生川上神社の御祭神「みずはの女神」の御分霊を祀り、 天照大神の姉君として水に関する一切の御神徳を授けられた神であると記されている。





瀧尾高徳水神社

瀧尾神社に続く石橋の左手に白糸の滝がある。 滝に続く小道に石碑があり、その先に高さ10mほどの小さな滝があった。 シャッター速度を1/8〜1/30位にしてデジカメを固定して撮影。

■白糸の滝…天狗沢にかかる名瀑、高さ約10m、弘法大師修行の場と伝わる。 1486年(文明18年)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に和歌が詠まれた。
「世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この瀧尾の たきの白糸」

白糸の滝へ








瀧尾神社は石碑前から木橋を渡り、急な石段をつづら折りに登って行く。 途中に小さな祠を見つけた。 上を向いていたら気が付かず通り過ぎたと思う。 撮影して近づきよく見ると祠の中に小さな仏像が安置されてる。 説明書きが無いから参拝の挨拶してさらに石段を登って行く。

石段の途中にある石像








さらに石段を登ると右側に別所跡と影向石を見つけた。 別所跡は東照宮の還座以前、日光参詣の中心は、この瀧尾周辺だった。 日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が大盛りのご飯を残さず食べろと責める儀式)も、ここが発祥の地です。 明治になって別所は廃絶した。 1509年(永正6年)日光に来た連歌師、宗長の紀行文「東路のつと」には、 「ここより谷々見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とあり、盛時の様子が偲ばれる。

別所跡 影向石(ようごうせき)入口
影向石(ようごうせき)…
影向とは神仏が仮の姿をとって、この世にあらわれること、弘法大師(空海)が820年(弘仁11年)この地に来て、 奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。





影向石から石畳に戻り先に進むと石造りの鳥居がある。 これが有名な運試しの鳥居だ! 鳥居の周辺の石畳は手前側にはほとんどなく、鳥居の向う側には小石が数多くある。 小石を投げ続けた結果、手前側には小石が無くなり、鳥居の先に小石が沢山ある。 私も小石投げに挑戦したが、どれも失敗した。残念…。 無人の神社だが参道から境内まで綺麗に清掃が行き届いている。

■運試しの鳥居…
1696年(元禄9年)三代将軍家光の忠臣、梶 定良が奉納したもので、国重文です。 鳥居の額束(中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。 御影石、明神造り。






鳥居の先には瀧尾神社の楼門(国重文)があるが、左右に仁王像が無く、扁額も無かった。 楼門のすぐ先に国重文の拝殿がある。 建物は1713年(正徳3年)に建立されたが、それ以前の建物は左側の天狗沢に向かって谷下まで高床があったという。
天狗沢

楼門

拝殿脇には苔むした石灯篭
楼門

拝殿

石灯篭から拝殿を撮影

拝殿の奥には本殿(国重文)があり、本殿の入口には唐門(国重文)がある。この建物も拝殿と同じ年に建てられたものだそうだ。 普通の神社の本殿は、背面に扉が設置されていることはないのだが、この本殿の背面には扉があり、ご神体である女峰山が遥拝できるようになっている。

■瀧尾神社…
日光二荒山神社の別宮。 本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の一つです。 女峰山の女神、田心姫命を祀る。 820年(弘仁11年)弘法大師が創建したと伝わる。 明治4年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」の扁額が掲げられ、仁王像が安置されていた。 1646年(正保3年)の建立。 四月の弥生祭には二荒山神社から瀧尾の神輿が渡御する。

■本殿、唐門…
本殿は三間社流れ造り、唐門は二脚平唐門。 総漆塗り、極彩色。 この建物は1713年(正徳3年)建て替えられたもので周りの玉垣、石畳もその時設けられた。 ご神体の女峰山を遥かに拝むように本殿の裏壁には扉が付けられた造りになっていて全国でも大変珍しい。

拝殿(右)と本殿(左)

唐門と本殿

本殿の奥に向かう
本殿

唐門

■瀧尾稲荷神社…
弘法大師が瀧尾神社とともに創建。 祭神は倉稲魂神(稲荷大明神)。 昭和41年、台風で流されたが、その後再建された。 昔、瀧尾上人が朝のお供えを忘れると稲荷の神が化けて出て、催促したという伝説が残る。

■無念橋…
俗称、願い橋で、三本杉を通してご神体山の女峰山を遥拝する為、自分の身を清め俗界と縁を切ることを意味する橋であったが、 いつの頃からか己の歳の歩数で渡ると女峰山頂上奥宮まで健脚で登ったことになり願いが叶うと伝わり、願い橋と呼ばれるようになった。 江戸時代まで、ここは日光修験の中心地であったところから、修験者(山伏)達の足腰の鍛錬のための修行が原因で、こうした伝承が生まれたという。

瀧尾稲荷神社

無念橋
瀧尾稲荷神社

無念橋(判りやすく位置を変えて撮影)

本殿の奥に向かうと、御神木の三本杉が祀られている。 石鳥居は国重文で、この場所は弘法大師が修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられている。

■三本杉(御神木)…
初代の杉は1699年、1747年、1749年と相次いで倒れ、現在の杉は二代目。 倒れた親杉は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。 この神木の霊験を示す話が、1667年(寛文7年)鶏頭院山舜の下僕が、この御神木を小さいと馬鹿にして、神罰を被ったという。

三本杉(御神木)


三本杉前の石鳥居は国重文
三本杉(御神木)

■酒の泉…
本宮の清水、薬師の冷水とともに日光の三霊水の一つです。 弘法大師が、この泉の水を汲んで神に捧げたと言われている。 この御供水には酒の味があると云われ、持ち帰って元水として酒を造ると、良酒ができるという。 醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家達で酒泉講が結成され、秋に祈願祭、春には報醸祭がおこなわれる。 現在は酉神苑の二荒霊泉でおこなわれる。

 酒の泉

酒の泉


酒の泉
さらに進むと瀧尾稲荷神社や酒の泉や子種石がある。 安産を祈願すれば霊験があるという子種石だが、石の前の鳥居も国重文に指定。

■子種石…
古くは子種権現と云われた。 子供が授かるように、また安産でありますようにと、この霊石に祈れば霊験があるというので、今日でも参拝ツアーが多い。
 子種石の石碑









子種石

風光明媚な場所の少し奥まった所に、長い歴史を刻んだ日光の歴史が隠されている。 霊験、静寂さが漂うここは千年以上の長きに渡り人々の信仰を集めてきた聖地です。

無人ではあるが、現在でも地元の人々によって清掃が行き届き、観光客の訪問を待っています。 映像で綴るこの地をご覧いただき訪問してみたいと思いませんか?


瀧尾神社の歴訪を終了して車に戻る。 エンジンのスイッチを入れた時には、大きな深呼吸をした。 日本各地にある神仏習合の名残を歴訪できたことに満足した。 来て良かった! 再び、細い道を走って神橋の交差点に戻った。 次の目的地は、失われた映像を求めて裏見の滝に向かう。

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