■ 知恵の文殊 智恩寺参拝と天橋立をサイクリング ■
智恩寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は天橋山または五台山。 切戸の文殊、久世戸の文殊、知恵の文殊とも呼ばれている。 知恵の文殊とも云われ、奈良の安倍文殊院、山形の亀岡文殊大聖寺とともに日本三文殊のひとつとされる。 本尊の文殊菩薩は秘仏で、正月の三が日、1/10、7/24の年5日だけ開帳する。
11時半前にレストランを出てお土産店街を散策。 お土産の品定めは妻の仕事だ。 2点ほど旅館に向かう時に買います。 智恩寺前には正面から撮影しようとしたがバイクが停車していた。


まぁ!しょうがないか!これも観光地らしい景観だ。 山門は1767年(明和4年)の建立され、三間三戸の二重門で上層は釈迦如来と十六羅漢が安置されている。 禅宗様式の山門として丹後地方最大の規模です。 山門をくぐると正面に文殊堂がある。 左側に多宝塔があり山門には二人のカメラマンが撮影の話をしている。

 山門



山門から多宝塔を

境内右手に「力石」の立札があった。 この石は古くから文殊に伝わる力石と案内されている。 お祭りや集会の余興でこの石を持ち上げ、青年たちが力自慢を競ったという。 石の重さは大が130s、中が100s、小が70sあり、今では当文殊時に奉納され、この石に触ると不思議に力と知恵が授かると伝わる。

文殊堂は1655年(明暦元年)から宮津藩京極高国によって修復され屋根は宝形造で正面は三間の向拝を葺きおろしている。 現在は銅板瓦ですが宝珠の銘文によって1657年(明暦3年)に屋根の葺き替えされた。




多宝塔
力石

本堂(文殊堂)

■多宝塔…
円形の塔身の上重に相輪をあげ、下重に方形の裳階を付けた塔婆を多宝塔という。 丹後国守護代の府中城主延永修理春信によって建立され、室町時代の建築物として丹後地方唯一の遺構です。 中央の須弥壇に大日如来が安置されている。

文殊堂の三軒の向拝には五台山の扁額と古い時代の絵馬が並んでいる。 大同年間の創建と寺伝にはあるが詳細は不明のようです。 ただ創建時は密教(真言宗)の寺院で禅宗寺院に変わったのは南北朝時代以降らしい。 古くから文殊信仰の霊場として知られている。

ぽん!としか鳴らないので…

南北朝時代の奉納絵馬
五台山の扁額

文殊堂の外縁四方から境内を良く見渡せる。 ここから見る鐘楼は良い映像が撮れた。 鐘楼は明治期に建立され3.6mの正四角形です。 鐘楼門に天文年間のに鋳造された梵鐘が吊在してたが、嘉永年間に改鋳され現所に移転、さらに昭和になり再改鋳された。 高い位置からの映像は無相堂、地蔵などほど良く撮影できた。



無相堂

鐘楼

鐘楼門は宮津の商家によって1722年(享保7年)に建立された。 商家では二人の子女を相次いで亡くし、菩提を弔う為、二人の法名から暁雲閣とも呼ばれている。 龍宮門形式で寄棟造りで上層に銘額「暁雲閣記」が掲げられている。 鐘楼門の奥の庫裡は寛政11年に再建され丹後では珍しい禅宗様庫裡建築でこの地方では最大の規模の大きさです。

鉄湯船は成相寺と同様に手水鉢として使われているが、元は寺院の大湯屋で寺僧の施浴に使う湯船として造られた。 口縁部に鍔がついて昔の湯船を感じられる。 鎮守堂は弁財天を祀り文殊堂の東側の海の島にあったが入り江の埋め立てで現在地に移転された。 嘉永2年に再建された。

方丈は文殊堂の奥にあり全体は確認できなかったが、文殊堂の左手から一部を確認できた。 禅宗方丈様式の建物で丹後地方で最大建造物です。 天橋立の松材が使われ、内部は総檜造りです。

鐘楼門と奥に庫裡

鎮守堂
方丈

鉄湯船

文殊堂本陣前に座り、文殊菩薩像前で般若心経を唱え、境内に戻ると気持ちが清々する。 帰りがけに文殊堂を振り返ると、なんと人がいない! チャンス到来とHP用の映像をゲットした。 多くの観光客がいるのに一瞬だけ文殊菩薩様がご褒美をくれた。

境内横はすぐ海の岸壁が迫っている。 その岸壁に突き出した所に智恩寺の「智恵の輪」燈籠がある。 変わった形の灯篭で江戸時代には輪っかの中に灯りが燈され、やみを照らし文殊水道(天橋立水路)を往来する船の標になっていた。 天橋立の龍神を呼び寄せる夢の様な伝説がある。 この地に来て智恵の輪燈籠は街中のアチコチで見ることができる記念スポットです。

鐘楼門と奥に庫裡

「智恵の輪」燈籠
一瞬だけ文殊菩薩様がご褒美…

モーターボート乗船場

文殊菩薩様から御褒美を戴き、次は天橋立観光です。 どの様に観光するかは現地で判断する。 「智恵の輪」燈籠付近は天橋立観光の手段が隠されていた。 ここのモーターボートの乗船場で良いコースを見つけた。 漠然と散策して終了と考えていたが、レンタサイクルを活用した観光を思いついた。 天橋立を往路は自転車を利用し、帰路は内海から眺望を楽しむモーターボートの利用です。

「智恵の輪」燈籠のそばのお店でレンタサイクル、モーターボート乗車券を1000円で購入し、ママチャリを選んだ。 それぞれ乗りやすい様にサドルの高さを調整。 自転車歩きで砂州まで向かう。 最初の赤い橋は廻旋橋といい、船が通過する度に90度旋回する珍しい橋です。 天橋立と文殊堂のある陸地をつなぐ橋です。 大正12年に手動で廻旋していたが通過船舶が多くなり昭和35年から電動式に改修された。 一日に50回ほど廻旋し、多くの観光客の目玉となり絶好の撮影スポットです。

 廻旋橋と景観 廻旋橋

内海の阿蘇海方向
宮津湾方向

「智恵の輪」燈籠とモーターボート乗船場

天橋立は宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6qに及ぶ湾口砂州で、宮島、松島と合わせて日本三景のひとつです。 その形成は2万年前に宮津湾が陸地化した後、氷河期が終わって海面上昇が始まった。 その後、水中堆積が発達し、6000年前の縄文後期に急成長した。 2〜3000年前に地震で大量流出した土砂により海上に姿を見せ、有史時代に現在の姿に成長した。

廻旋橋を渡ると船の通過航路に沿って細長い天橋立多目的公園がある。 ここには日本三景碑もあり、自転車は歩いている人が多く乗りなれない自転車で、まだ押し歩き状態です。 ここから青い大天橋を渡ると天橋立の砂州に入ります。

日本三景碑



大天橋

砂州の幅は20m〜170mあり公道になっている。 バイクが走っているのを見て吃驚した。 砂州が真っ直ぐに堆積したのは宮津湾の沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、内海の阿蘇湾の海流とぶつかり海中に真っ直ぐな砂州が堆積してきた。 砂州には自然発生的に松林が生えたもので植林ではない。 日本の道100選にも選定され、公道で主に観光の散策路になっている。

そのスタート地点に与謝野寛、晶子夫妻の歌碑が建立されている。 近代を代表する歌人で、幾度もここに訪れ多くの歌を残した。 近くに与謝野町がある。 平安の歌人和泉式部から近世に至るまで多くの文人がこの地に訪れ、数多くの短歌や俳句が詠まれてきたという。 このあたりから妻の自転車の習熟運転に入る。 ママチャリといえども習熟運転は必要で、フラフラしながらも広いエリアをゆっくり乗っている。

与謝野寛、晶子夫妻の歌碑




暫く進むと人の流れの間隔が空いてくる。 砂州と松林の景観の中から構図を考えながら暫く行ったり来たりします。 順光と逆光、砂州と青空の構図を工夫しながら進むから歩いた方が早いかもしれない。 それでも妻は慣れたようで自転車で良かったという。 路から外れて砂浜に向かってみる。 海辺ぎりぎりまで近寄り、白い砂浜と連なる松林を構図に考えてお気に入りの映像が撮れた。

宮津湾



天橋立の松林は腐植土により富栄養化や高い地下水位の影響によって根があまり育たないまま幹だけが高く育ってしまい、 バランスの悪い倒れやすい状態になっている。 はじめは形良い、映像としても良いと思っていたが、説明板を読んで深刻な問題だと思った。





一番お気に入り










路を1q程進むと左手に神社が見えてきた。 天橋立の松林の中に天橋立神社(橋立明神)があり龍伝説が残り八大龍王が祀られている。 恋愛成就のパワースポットとして人気の神社です。 正面と斜めから撮影したら、その横奥に磯清水がある。 周囲を海に囲まれているが真水が湧く不思議な井戸として神社の参拝時に手水として利用されている。
磯清水に行くと確かに井戸がある。 口に含んでも塩味を感じない不思議な名水で、古くから珍重されている。 湧水なので飲まないよう立札があった。

天橋立神社(橋立明神)

天橋立神社(橋立明神)
天橋立神社(橋立明神)

磯清水

古代から奇勝、名勝と知られ大戦後に国の特別名勝に指定された。 文化的景観として、その後、若狭湾国定公園の指定に含まれ、現在は丹後天橋立大江山国定公園の指定区域になった。 現在は宮津天橋立の文化的景観として文化庁から重要文化的景観に選定されている。

 蕪村の句碑




このあたりに来ると、観光客は随分少なくなった。 歩く人は途中で戻る人も多いようだ。 自転車走行が楽になった。 途中で休憩処は数多くあるが自販機は見当たらない。 砂浜の近い所の休憩処が気に入って、ここで大休憩したくなった。 場所的には対岸が近いから、ここは自転車の強みで気軽に走って対岸の自販機で清涼飲料を購入し元の休憩処に戻った。 風が爽やかで青い海と白い砂浜が見え気分爽快です。

この休憩処で一緒になったのが金沢から来たお婆ちゃんと孫の女の子です。 妻はいつものように饒舌にお喋りする。 私は隣で聞く役に徹する。 娘が韓国の人と結婚し、今日は里帰りで、お爺ちゃんは天橋立を散策しているという。 お孫さんは両国語を話せるし、お婆ちゃんにとても甘えている。 今日は天橋立を観光して兵庫の城崎温泉に向かうという。 妻は行ったことが無いから盛んに聞いていた。 そして休憩しながらひと時の雑談で大いに喜んでいる。






最近、天橋立は浸食により縮小傾向にある。 戦前まではスリムな弓なりの美しい曲線の砂浜を描いていたが戦後は歪に変化し始めている。 戦後に入り河川にダムがつくられ、山地から海へ土砂供給量が減少し天橋立の土砂の堆積、浸食のバランスが崩れてきたと云う。

最近の研究によると真名井川などの河川の流入だけでは砂州を形成するには元々不足と研究結果が出ている。 なぜ砂州が形成されたかは古い時代から江戸時代に至る巨大地震による土砂流が海底に蓄積されてきたと云う。 そして浸食の原因は湾内の海流の変化が原因とされ、浸食を防ぐために宮津湾側の砂州部分に小型の堆積堤を設置し流出する土砂を食い止めている。




夫婦杉


飛龍観、昇龍観、天橋立といえば龍が付物ですが、この倒れた松も双龍の松という銘木だった。 しかし平成16年に台風の被害に遭って、天橋立の松は250本近く倒れた。 この双龍の松は、その惨状を記憶に残すため、ここに残されている。 2本の松の中は空洞になり大きく向う側が見える。

 双龍の松





双龍の松から先は対岸に到着。 ここで時間に余裕があるから元伊勢大神宮籠之宮まで足を伸ばした。 自転車に乗り小道を進みボート乗り場を通過したら私達を見て慌てて呼び止めた。 自転車で向かうと置き場が無いので、ここに置いて行ってくださいという。

自転車置き場が無いなら仕方ない。と云う訳で観光に向かう。 京都の夏は暑い!快晴で雲間から太陽がギラギラ…。 現在13時22分。

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