■ 弘道館の歴史散策 ■

トップの映像は至善堂で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜公が
一時期謹慎した部屋です。 正庁前の入口前には斉昭公が植樹した黒松と宮内庁から賜った左近の桜があり、桜の開花時はきっと華やかに…。

広い入口から入ると真正面の部屋に大きな「尊攘」の掛け軸がある。江戸末期にタイムトンネルした感がする。 見学コースはこの部屋から左に進んで正庁の正席の間に向かう。


正庁正席の間では、琴の演奏会が開催され丁度、終了間際の時間帯だった。 とっさにデジカメの設定変更をして柱を利用して高感度撮影を開始。 10数枚の映像が確保できて今日はツキがあった。

江戸時代、正席は藩主が臨席し学芸や武芸の試験をここから見る所で東日本大震災の復旧工事の時、二重床の構造が判明した。 防寒の他、床下からの攻撃から藩主を守るための構造だったことが判明した。

弘道館正庁前は黒松と左近の桜

正庁正席の間で琴の演奏会

次の演奏会の打ち合わせ中
入口正面に「尊攘」の掛け軸がある。

演奏会が終了し和やかな雰囲気に…

撮影場所から外の景観


正庁から廊下を進むと畳廊下の左手に湯殿と便所がある。  薄暗い部屋に入ると湯殿は今で言うサウナだ!  床板がやや斜めに敷きつめてあり中央に排水口がある。  ここに寝転んで熱湯の湯気を出しサウナを楽しんだようです。  その奥に便所があり、江戸時代から快適空間を楽しんでいたようです。

華やかな正庁から廊下の奥に生活空間に溢れた場所がすぐそばにある事に驚いた。

サウナ室と便所  サウナ室  便所

長い畳廊下をさらに進むと廊下が広くなった。 広い畳廊下は正庁と至善堂御座の間を繋ぐ廊下です。 そこに鬼瓦の展示紹介がある。 畳廊下の撮影でシャッターチャンスを待つ間に撮影したのが鬼瓦です。 昭和の大修理の時の鬼瓦でハートの形が使われている。 ハートの模様は日本の伝統的な「猪目」という模様で厄除けや火災除けの意味があるという。

広い畳の十間廊下

至善堂御座の間に向かう
鬼瓦の展示

縁側で日光浴
至善堂御座の間は最後の将軍徳川慶喜も5歳から11歳までここで学んだ。 大政奉還後の明治元年慶喜は水戸に帰り、幼少時代を過ごした至善堂にこもり、静岡に移るまでの4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送った。
至善堂 御座の間 …1857年(安政4年)に設置した消防用ポンプ
至善堂

至善堂は二の間から四の間まであり藩主の諸皇子の勉学場所でした。 200年以上続いた徳川幕府、そして新しい時代の幕開け。 国難の中、難しい国際情勢の中で慶喜公はどのように考えていたか。

ふと気が付くと、ここは満開のサンシュユがある所だった。 青空の中に黄色の花弁が映えていた。
徳川慶喜公が使用した長持ち

館内展示室は多くの観光客で溢れかえっていた。 個々の撮影は出来る所だけ映像を確保する。 老若男女と云いたいが、年配者と若い女性が目立った。

農人形


弘道館のある三の丸と二の丸との間には深い空濠で仕切られている。  現在は道路として活用されているが、二の丸と三の丸を繋いていた大手橋が架かっている。  そして二の丸への入口には水戸城大手門の復元工事の案内があった。  当時の写真と完成予想図が案内されていたので映像として残した。

大手門の概要
水戸城大手門は、江戸時代、大手橋の東側にあった二階建ての城門で水戸城の顔というべき門だった。 1、2階とも桁行約17m、梁間5.72mという櫓門潜戸付、一階番所付、木造入母屋造本瓦葺の建築物です。

大手橋

行き止まりで引き返した

復元工事案内 完成予想図
大手門の復元工事中

二の丸、三の丸の間は深い空濠だった

当時の写真

弘道館の外側周囲を歴史散策。 一直線に延びる小路は梅林が続いているが、元々は文館があり、居学、講習、句読、寄宿、教職詰所などがあった。 明治元年の改革派と保守派の戦いで焼失したという。 弘道館は白塀で囲まれているが外側は土塁で囲まれている。

孔子廟、八卦堂の特別公開の案内

弘道館の白塀

一直線に延びる小路は梅林が続く

紅梅

孔子廟が見えてきた
孔子廟は斉昭公が弘道館を開設するにあたり、敷地内に精神のよりどころとして鹿島神社と孔子廟を祀り学校の聖域とした。
孔子廟正面

参拝してから撮影
門をくぐると…

孔子廟の土壁の模型

孔子廟を出ると反対側に学生警鐘がある。 斉昭公が自鋳(複製)した鐘が吊ってある。 鐘の外側には注連縄と八咫鏡および勾玉を榊にかけて垂をつけた浮彫が施されている。

そばに石鳥居がある。 ここが鹿島神社の入口。 境内の中まで車両が通行できるようで、鳥居をくぐって車が入って行った。 10数台が駐車できるスペースがある。 何か神社の品格が下がった気分。

学生警鐘

八卦堂(はっけどう)

八卦堂は弘道館の建学の精神を示す「弘道館記」の碑を納めた堂で、弘道館教育の精神的な支えとなった。 右の映像が内部に保管されている石碑です。 ここお普段は公開されていないという。 何か得した気分。

鹿島神社の鳥居


刻印がうすく良く読めない
八卦堂の横奥の目立たない場所に種梅記碑があった。 種梅記碑は柵で囲われ、斉昭公自撰の名文「種梅記」が自筆の隷書で刻まれている。 斉昭公の梅に対する思いが良く判る。
種梅記碑 新旧の手水場
鹿島神社は1857年(安政4年)に遷座祭がおこなわれ、同時に弘道館の開館式が挙行された。 常陸一之宮の鹿島神宮から分霊を勧請して祀られている。 三の丸庁舎前の調練場跡は軍事練習場、砲場、弓砲場、厩(うまや)などの施設があった。
 鹿島神社



馬場跡




茨城県三の丸庁舎と手前は調練場跡

八卦堂(はっけどう)を通り過ぎて先を進むと、馬場跡がある。 さらにその先に調練場跡がある。 調練場跡を通り過ぎていくと、三の丸の端に来た。

この先の景観を見ると水戸城址の深い空濠跡や土塁がそのまま残されていた。 水戸城址は立地的、地理的条件などから戦国時代に見るような堅固な石垣でなく簡素な城郭だったことが判る。 江戸時代、藩主は現在の小石川後楽園の屋敷に居ることが多かったという。
           背景に土塁が残っている。 ⇒


城郭というと堅固な城郭に守られた感がするが、水戸の文化は本丸跡には県立水戸第一高校、 二の丸跡には県立水戸第三高校、茨城大学付属小学校、幼稚園、市立第二中学校が建設されている。 これも水戸学の教育熱心な県民の心ではないかと思う。

弘道館をひとまわりしてきた。 三の丸小学校に隣接して三の丸市民センターがある。 センター前で人だかりがあった。 何々、人垣の間からのぞいてみると、二人の着物姿の女性と水戸のマスコット「みとちゃん」です。 女性は「2018年三の丸観光大使」のタスキを掛けている。 手に持っているのは日本語、英語など9ヶ国の言葉で「歓迎」の意味の案内を持っている。 観光客が間に入って記念撮影していた。 観光客が抜けた瞬間を撮影。

 水戸駅に向かう

レトロな市内循環バス「漫遊バス」

 水戸駅前



水戸駅前



水戸黄門の旅姿の銅像
 


水戸市には入社して間もない頃、仕事でよく来ていたが、その面影は全くなかった。 近代的な駅前で車と人が分離して立体化していた。 駅のコンコースを通り抜け反対側に移動した。 こちらは発展途上の雰囲気だ。 ここから千波湖畔の駐車場に戻る。 西日が眩しく帰路の徒歩は汗をふきふき歩く。



千波大橋


桜川

弘道館を見学、散策して気が付いたのは古くから学ぶ心、礼節の本源について武士階級から多くの庶民に至るまで高い教育水準を維持してきた。 明治以降の近代化の原動力となり国民性として日本遺産、近世日本の教育遺産群として認められたのは素晴らしい事だと感じた。

人生の先輩が引き継いで培ってきた歴史と伝統は、これからも若い世代に引き継がれていけばよいと思う。 日本人の人口減少と外国人の増加で公職選挙法もこれからどのようになるか判らない。 日本が日本で無くなる時期が来るかもしれない。

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