■ 上杉の城下町 上杉鷹山と上杉神社 ■

NHK大河ドラマ「上杉の智将 直江兼続の歴史紀行」、豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山に転封され、会津に入った蒲生氏は上杉氏の支配下に入った。 上杉景勝は家老、直江兼続に30万石を与え米沢に入れた。 その後、上杉氏は関ヶ原の戦いに先立ち徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)、上杉景勝は120万石を30万石に減封され、居城を会津から米沢に移された。 直江兼続は米沢城を上杉景勝に譲り、米沢藩が成立した。


銀山温泉から1時間ちょっとで、米沢市に到着した。 早速。米沢城址の駐車場へ…。 最初に松岬神社へ向かう。 ここは明治に上杉神社から上杉鷹山公を分祀し、松岬神社として社殿を建立した所です。

米沢城址公園にある上杉の城下町米沢の案内

松岬神社にある上杉鷹山公の像
松岬神社にある上杉鷹山公の説明板

最初に松岬神社の境内に参拝。 積雪対策に板を利用するのは積雪量が多いと考えた。 境内を進み、社殿で参拝、社殿は大正時代に建立された。

鳥居から社殿まで一直線



左側にある池もまだ積雪対策が…

池の奥に手水舎

松岬神社社殿

松岬神社の反対側には米沢市文化ホールがあり、「天地人博」が開催されている。 ここは後で訪問することにし、まず米沢城址に向かった。

上杉記念館が遠方に… 米沢市文化ホール

米沢城址は米沢市街地のほぼ中心に位置し、本丸跡は上杉神社の境内となって、二の丸跡には上杉記念館がある。 舞鶴橋から本丸へ…、桜が開花する時期は素晴らしく、多くの人々で賑わい、季節を変えて歴訪したい。 信玄の旗、謙信の旗、それぞれ城址にはよく似合う。 そう思いながら、舞鶴橋を渡って本丸へ…。

本丸の濠

舞鶴橋と濠

舞鶴橋
舞鶴橋と濠

舞鶴橋入口

舞鶴橋から二の丸の上杉記念館が…

一昨年は、年間を通して、武田信玄の歴訪を重ね、今年は謙信や鷹山、そして直江兼続の歴訪を目指す。 これも財務省(妻)の力のお陰か…。 これから本丸へ入るが、まるで子供の待ちこがれていた遊園地に来たような気持ちです。(笑い!)

慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ、城の大改修を行い、慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。 本丸には藩主の御殿と、米沢上杉氏の祖である上杉謙信の遺骸を上杉氏の本拠であった越後春日山城から移して安置し、祀った御堂が南西隅に置かれ、天守の代わりに三階櫓を2つ置いた。 二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する真言宗の寺院群と塁上には二重櫓が置かれた。 石垣は用いずに土塁を多用し、全体的に質素な平城となった。

舞鶴橋にある特徴ある松

謙信公祠堂跡へ
上杉謙信公の像

謙信公祠堂跡

■米沢城に関わるゆかりの戦国武将…伊達政宗公はこの米沢城で生誕した。秀吉によって仙台に移封されたが、後に仙台藩の基礎を築いた。
■米沢城に関わるゆかりの戦国武将…上杉景勝公は米沢藩の初代藩主、新潟魚沼で生誕、謙信の養子となり越後統一後、秀吉により会津へ移封、その後、家康により米沢へ移封される。

慶応年間の戊辰戦争で戦士した招魂碑



伊達政宗生誕の碑

■米沢城に関わるゆかりの戦国武将…直江兼続公は上杉景勝を支えた文武兼備の将。樋口家の長男として坂戸城で生まれ、景勝の近習に選ばれ、側近として活躍。 重臣、直江家を継いで上杉家の中枢として活躍。軍事から内政まで米沢の基盤を築く。
■米沢城に関わるゆかりの名君…上杉鷹山公は初代藩主景勝の意向に縛られ、会津120石時代の家臣団を召し放つことをほぼせず、米沢藩再生のきっかけを作り、藩士、農民など身分を問わず学問を学ばせた。 これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、倹約、質素、勤勉の米沢藩を築き上げた。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の  なさぬなりけり」…上杉鷹山公詠

上杉鷹山公の像

上杉鷹山公詠


一つ一つの歴史を探訪しながら上杉神社へ一歩一歩近づいていきます。 右手に神楽殿を見がら最後の鳥居をくぐります。 上杉鷹山の改革への道のりの多くの施政は、米沢藩の基礎を築いた直江兼続の事業を模範にしたものといわれる。

手水舎



上杉謙信公家訓十六ヵ条の碑




実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当するが、人材を切り捨てず改革を進めた。 最近の企業経営者に爪の垢でも煎じて飲ませたい… 鷹山の改革のお陰で飢饉の時も日本中で餓死者が出たが米沢藩内から出なかったという。

上杉神社神門

拝殿を取り巻く透かし塀



上杉神社拝殿

拝殿の階段

上杉神社の御祭神は上杉謙信公です。 1578年、上杉謙信が越後の春日山城にて急逝し、その遺骸を城中不識庵に鎮祭されたが、二代景勝が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して、260年に及んだ。 質実剛健の気風を備え、装飾は少ないながらも堂々とした構えです。

神楽殿



福徳稲荷神社


積雪対策のためのシート

上杉神社は大正8年の米沢大火で 焼失したが、大正12年に再建された。 設計者は、米沢市出身で明治神宮、出雲大社、靖国神社など多くの建築物を設計した伊東忠太博士です。





冬が過ぎれば庭園にも緑が映えて美しくなる。


神社境内の庭園も積雪対策で木の板で樹木が保護され、この時期ならではの景観です。 上杉神社の左脇に小道があり、ここを通って春日神社へ向かう。



十三代上杉曦山(斉憲)公の碑


春日神社は上越の春日山頂に、奈良の春日大社を分霊し領内の平和を祈り、戦国時代の上杉家は代々春日神社を守り神として敬い続け、藩主の移封と共に新潟から会津そして米沢へと移った。 その後、減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、再建を願った鷹山公は春日神社へ誓詞奉納をした。 春日神社をさらに進むと本丸の菱門橋の出口を出た。 ここから二の丸の上杉記念館に向かう。










本丸を隅々まで散策して二の丸に出た。 一度、休憩をとりたいが喫煙できず、足も疲れてきた。 ここで辛抱して二の丸を歴訪してから大休憩をとりたいと思う。
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