◆『上杉の智将 直江兼続』の歴史紀行(U)◆ 慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。 本丸には藩主の御殿と、米沢上杉氏の祖である上杉謙信の遺骸を上杉氏の本拠であった越後春日山城から移して安置し、祀った御堂が南西隅に置かれ、天守の代わりに三階櫓を2つ置いた。二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する真言宗の寺院群と塁上には二重櫓が置かれた。石垣は用いずに土塁を多用し、全体的に質素な平城となった。   …フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

舞鶴橋を渡って、早速、謙信公の撮影をと思ったら、人だかりで暫く辛抱して待ちました。
舞鶴橋を渡った処にある、特徴ある松。


上杉謙信公の像

謙信公像の反対側の高台に行って見ました。
謙信公祠堂跡があります。


謙信公祠堂跡…現在は上杉御廟所に移されています。

米沢城に関わるゆかりの戦国武将…伊達政宗公
 この米沢城で生誕した。秀吉によって仙台に移封されたが仙台藩の基礎を築く。

慶応年間の戊辰戦争で亡くなった戦士の招魂碑




米沢城に関わるゆかりの戦国武将…上杉景勝公
 米沢藩の初代藩主、新潟魚沼で生誕、謙信の養子となり越後統一後、秀吉により会津へ移封、その後、家康により米沢へ移封される。




伊達政宗生誕の碑

米沢城に関わるゆかりの戦国武将…直江兼続公
 上杉景勝を支えた文武兼備の将。樋口家の長男として坂戸城で生まれ、景勝の近習に選ばれ、側近として活躍。重臣、直江家を継いで上杉家の中枢として活躍。軍事から内政まで米沢の基盤を築く。

上杉鷹山公の像。


「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の  なさぬなりけり」…上杉鷹山公詠

米沢城に関わるゆかりの名君…上杉鷹山
 初代藩主景勝の意向に縛られ、会津120石時代の家臣団を召し放つことをほぼせず、米沢藩再生のきっかけを作り、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、倹約、質素、勤勉の米沢藩を築き上げた。






一つ一つの歴史を探訪しながら上杉神社へ一歩一歩近づいていきます。
手水舎


上杉謙信公家訓十六ヵ条の碑

右手に神楽殿を見がら最後の鳥居をくぐります。





上杉鷹山の改革への道のりの多くの施政は、米沢藩の基礎を築いた直江兼続の事業を模範にしたものといわれる。



残雪の残る境内の景観

実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していたが、人材を切り捨てず改革を進めた。
上杉神社神門




最近の企業経営者に爪の垢でも煎じて飲ませたい…
拝殿を取り巻く透かし塀


上杉神社拝殿

鷹山の改革のお陰で飢饉の時も日本中で餓死者が出たが米沢藩内から出なかったという。



拝殿への階段を撮影


神楽殿




上杉神社…
 御祭神 上杉謙信公である。1578年、上杉謙信が越後の春日山城にて急逝し、その遺骸を城中不識庵に鎮祭されたが、二代景勝が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して、260年に及んだ。




積雪対策のためのシートのカーテンが施設されている。

質実剛健の気風を備え、装飾は少ないながらも堂々とした構えでした。
福徳稲荷神社




上杉神社は大正8年の米沢大火で 焼失したが、大正12年に再建された。設計者は、米沢市出身で明治神宮、出雲大社、靖国神社など多くの建築物を設計した伊東忠太博士です。





冬が過ぎれば庭園にも緑が映えて美しくなるでしょう。
4枚を合成したものです。

神社境内の庭園も積雪対策で木の板で樹木が保護されていてこの時期ならではの景観だと思います。





上杉神社の左脇に小道があり、ここを通って春日神社へ向かいます。
十三代上杉曦山(斉憲)公の碑




春日神社…
上越の春日山頂に奈良の春日大社を分霊し領内の平和を祈り、戦国時代の上杉家は代々春日神社を守り神として敬い続け、藩主の移封と共に新潟、会津そして米沢へと移った。






その後、減封を続けた上杉家は藩の財政が苦しく、再建を願った鷹山公は春日神社へ誓詞奉納をした。





春日神社をさらに進むと本丸の菱門橋の出口を出ました。ここから二の丸の上杉記念館に行ってみたいと思います。





本丸を隅々まで散策して二の丸への方向に出てしまいました。一度休憩をとりたいが喫煙できず、足も疲れてきました。ここで辛抱して二の丸を歴訪してから大休憩をとりたいと思います。


inserted by FC2 system