◆海津城址に織田の痕跡はあるか?◆ 武田が織田に滅ぼされた後、海津城には織田の武将、森長可が入った。その後織田信長が本能寺の変で死去した後は、政情が不安定な新領地の信濃から逃亡し、旧領の美濃金山城へと帰還したと云われる。
この日、海津城址には松代町の人々が桜祭りの催しで大賑わいでした。町のハッピを着ている人、数人に、主旨を話すと、戦国時代の一時と云われ、織田支配のイメージは無いようでした。

織田の武将、森長可は1582年、甲斐武田氏攻めにおいて、飯田城・高遠城の攻略などで活躍し、その戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡と海津城20万石を与えられたが、歴史の瞬間でしか記録が残っていなかった。
2年前にも、この踏切をわたりました。…暑い夏でした!




2年前の正面の景観に違和感を感じたが、よく見たら手前の道路が整備されていました。



二の丸南門から見る太鼓門

夏の時期は緑の樹木にお濠には蓮の葉などで彩られていたが、今回は桜で化粧をした海津城址が迎えてくれました。
桜の城址を見て妻が大変喜んでいます。


堀から見た太鼓門

直江兼続が使者として、高坂弾正と交渉し、上杉、武田の同盟のきっかけを作った海津城は桜が満開でした。



本丸と二の丸をつなぐ東不明門前橋

桜祭りの準備で松代町の人々がテントや屋台のオープン準備をしていました。
内濠に映る対称の景観。


石垣を彩る桜

午前10時近くなり、観光客も多く、また近所の人々の散歩のコースにもなっています。
本丸と二の丸をつなぐ東不明門前橋


東不明門前橋

明治の廃城以後の松代城は、往時の姿が想像できないほど城としての景観を失っていました。発堀調査や往時の絵図資料をもとに江戸時代の景観を復元したそうです。



本丸内から太鼓門をみる

妻も撮影で私の後ばかりでなく、自分で撮影構図を捜し求めて、時々、どこにいるのかお互いが探しあって、合流するのに苦労します。
本丸から見た北不明門


本丸碑

真田家は最後まで本丸内に天守を築かなかったそうです。関が原の戦いで親子が両軍に分かれて生き延びる知略を講じたが、最後まで徳川家に気を使ったようです。





妻のデジカメは桜がメインで城址が脇役のように撮影されている(笑)





町の方が石垣の造成では、極力、当時の石を使い足らない部分を新しい石を使ったそうで、石垣をよく見るとわかります。





デジカメの使い方で判らない事を聞きに来ると私も自慢げに説明…。





本丸内から北不明門を出て再び二の丸へ…、
北不明門全景




お城の桜が満開で春の景観の中で、松はしっかりと存在感を誇示していました。





季節が変わるだけで、城址の景観が綺麗に衣装換えしているように見えます。
妻のお気に入りの松です。




妻は城址を撮影するのは今回が初めてで、構図のとり方がよく判らない様で、ひとつの場所で何枚も撮影するので、撮影枚数がどんどん増えてきました。4Gのメモリーだから1000枚撮影可能だから、納得するまで撮影してかまわないと話してあります。城址の散策が終わって駐車場に戻る頃は、日差しも強くなり、真夏日のような暑さになりました。


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