■ 上越から北信濃へ、川中島古戦場、海津城址に歴訪 ■

川中島古戦場、海津城址に織田の痕跡はあるか? 早めに「信濃の宿」を出発して、国道18号線を長野に向けて走行。 朝靄の漂う渓谷沿いの国道を一気に走り、30分ほどで千曲川沿いの川中島古戦場跡に到着した。 古戦場跡には公園も併設してあり、広い敷地には桜も満開の状態で、旅の出だしは絶好調!でも公園の駐車場は開くまで10分程待たされた。


「信濃の宿」から見える妙高山、黒姫山、飯縄山の夕景と翌朝8時頃の景観です。 「早起きは三文の得」とよく聞くが、時間の有効活用は… 国道18号線を快適に走ることができて、あっという間に川中島古戦場へ…

飯縄山の夕景

黒姫山の夕景

黒姫山の朝景
妙高山の夕景

妙高山の朝景

妙高山の朝景

駐車場に着いたのは8時50分、駐車場は開いてなく、道路に駐車して公園内を散歩! 公園の散歩の主役は、犬の散歩とジョギングの人々です。 どこでも見られる光景でありながら、挨拶も気持ちいいものです。 5分も待たずに、公園の係員が駐車場を開けてくれた。 「おはようございま〜す!」の掛け声で公園内に活気が漂ってくる。 お土産店が一斉に開店準備を始めた。






最初に八幡社に向かった。 鳥居をくぐりすぐ目につくのが、川中島合戦図。 大きな看板にカラフルな図解でわかりやすく描いてある。 人気のない神社内を妻と二人で、一つ一つ解説を読みながら朝の散歩を楽しんだ。 話題になる戦いの碑だけでなく、その謂われを理解するのも自分の勉強になるし、再発見に繋がるかもしれない。

八幡社の正面入口

鳥居





川中島の合戦の両軍の配置図



信玄と謙信の対峙

首塚は川中島の戦いの戦死者を高坂弾正が、敵味方を問わず、戦死者を弔った。 それを知った謙信が、後に塩に悩む武田に「我、信玄と戦うも弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送り、後に「敵に塩を送る」と云う言葉が生まれた。
昔からこの辺一帯を八幡原と云われ広大な平地が広がり、この一帯を領地にすることは、当時の米を確保できることだった。 そして旧社殿(鞘堂)の真後ろに、現在の神殿が建立された。

首塚の碑

旧社殿(鞘堂)

社殿正面
龍虎の碑

現在の社殿

社殿の全景

逆槐(さかさえんじゅ)は槐を土塁に陣地として積み重ねたものが、この時代に大樹に成長した。
三太刀七太刀の碑は謙信の三太刀を受けた信玄の軍配に七太刀の傷が確認されたと云う伝えです。
執念の石は信玄、謙信の一騎打ちとなった時に信玄の家来が槍で謙信を突くも取り逃がし、執念の気持ちで石を突くと穴が開いたとされる。 川中島の戦いで、よく目にする信玄と謙信の銅像をいろいろな角度から撮影!

逆槐(さかさえんじゅ)

執念の石

信玄と謙信
三太刀七太刀の碑

信玄と謙信

信玄と謙信
古戦場跡の散策を終わり、満開の桜を見ながら公園の散歩をして駐車場へ戻った。 次の予定のコースをカーナビにセットしている間に、妻はいつものお土産店へ…。


公園のお店が一斉にオープンしているのを見ると早速、いくつかのお店を物色…、その中で信州りんごのお店で何やら立ち話…、御主人は私達の家の近くに若い時に住んでいて、長〜い立ち話になった。 1袋のリンゴを買ったら、5袋のリンゴがおまけで付いてきた。 私は買ったものだと思っていたらくれたと云う。 妻の話上手は昔から感心するが、ここでもびっくりした。 車内でリンゴをかじる妻の横顔を見ることになった。



■ 海津城址に織田の痕跡はあるか? ■

武田が織田に滅ぼされた後、海津城には織田の武将、森長可が入った。 その後織田信長が本能寺の変で死去した後は、政情が不安定な新領地の信濃から逃亡し、旧領の美濃金山城へと帰還したと云われる。 この日、海津城址には松代町の人々が桜祭りの催しで大賑わいでした。 町のハッピを着ている人に主旨を話すと、戦国時代の一時期と云われ、織田支配のイメージは無いようでした。


織田の武将、森長可は1582年、甲斐武田氏攻めにおいて、飯田城、高遠城の攻略などで活躍し、その戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡と海津城20万石を与えられたが、歴史の瞬間でしか記録が残っていなかった。 2年前の正面の景観に違和感を感じたが、よく見たら手前の道路が整備されていた。 前回訪問時の夏の時期は緑の樹木、お濠には蓮の葉などで彩られていたが、今回は桜で化粧をした海津城址の歴訪です。

2年前にも、この踏切を通った

二の丸南門から見る太鼓門

桜咲く本丸石垣
二の丸入口

太鼓門

太鼓門

直江兼続が上杉家使者として、高坂弾正と交渉し、上杉、武田の同盟のきっかけを作った海津城は桜が満開でした。 桜祭りの準備で松代町の人々がテントや屋台のオープン準備をしている。 午前10時近くなり、観光客も増えてきた。 近所の人々の散歩のコースにもなっている。

太鼓橋

太鼓橋

東不明門橋
本丸と二の丸をつなぐ東不明門橋

石垣を彩る桜

東不明門橋

明治の廃城以後の松代城は、往時の姿が想像できないほど城としての景観を失った。 発堀調査や往時の絵図資料をもとに江戸時代の景観を復元したそうです。 妻も撮影で私の後ばかりでなく、自分で撮影構図を捜し求めて、時々、どこにいるのかお互いが探しあって、合流するのに苦労する。
真田家は最後まで本丸内に天守を築かなかった。 関が原の戦いで親子が両軍に分かれて生き延びる知略を講じたが、最後まで徳川家に気を使ったようです。



本丸から見た北不明門
本丸内から太鼓門を…

本丸碑

天守台に上ってみる。 妻のデジカメは桜がメインで城址が脇役のように撮影されている(笑) 地元の人が石垣の造成では、極力、当時の石を使い、足らない部分を新しい石を使ったそうで、石垣をよく見ると判った。 妻がデジカメの使い方で判らない事を聞きに来ると私も自慢げに説明…。














本丸内から北不明門を出て再び二の丸へ…、 お城の桜が満開で春の景観の中で、松はしっかりと存在感を誇示している。 季節が変わるだけで、城址の景観が綺麗に衣装換えしているように見える。

北不明門全景








妻は城址を撮影するのは今回が初めてで、構図のとり方がよく判らない様で、ひとつの場所で何枚も撮影するので、撮影枚数がどんどん増えてきた。 4Gのメモリーをセットしてあり1000枚撮影可能だから、納得するまで撮影してかまわないと話してある。 城址の散策が終わって駐車場に戻る頃は、日差しも強くなり、真夏日のような暑さになった。

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