■ 国宝 犬山城歴訪 ■

犬山城は、愛知県犬山市にあり、江戸時代前後に建造された天守が現存する。 また、現存天守は国宝に指定された5城のうちの一つです。 城は木曽川沿いの高さ約90mほどの丘に築かれた平山城である。
二見興玉神社の夫婦岩からの日の出を撮影に挑戦したが生憎、天候が良くなく次回に持ち越した。 その為、早朝5時過ぎに鳥羽を出発し愛知の国宝犬山城の歴訪に向かう。


犬山城の駐車場へは朝7時頃に到着。 駐車場の管理人からお城は9時に開くから、それまで木曽川からの、お城の撮影を勧められた。 駐車場から木曽川の畔に向かって早朝の散策。





日曜日という事で、木曽川に沿った遊歩道では町の人たちの朝市が始まっていた。 そのため川沿いの沿道は多くの車両が駐車。 犬山城下町の景観を保存する取り組みに町が取り組んでいる。 その為、今回は犬山城だけ歴訪する。 犬山城付近の史跡公園(旧城郭…馬場や材木蔵、組長屋)を散歩。

犬山城城下町の案内

旧城郭の公園
当時の犬山城掘割

高台公園

犬山城の松の丸跡には三光稲荷神社と針綱神社があり参拝。 三光稲荷神社は朱の鳥居、染幟が林立する社前に商売繁盛と家内安全を祈る祈願者が多い。 拝殿へは石段を登るが狭いエリアに色々な神社があった。
おもがる石は、あなたの願いや思いを神様にお願いし、叶うならば軽く上がり、叶わなけ時は重く感ずるという、不思議な石です。 目を閉じて祈りを捧げ、目を閉じたまま石をなで戴くようにして両手で持ち上げる。 その結果、成るか成らぬかがわかる。(説明板より)

三光稲荷神社鳥居

伊勢の分神、猿田彦神社

猿田彦神社

拝殿
夫婦岩を庭園で表現

手水舎

姫亀神

おもかる石

針綱神社は古くから濃尾の総鎮守であり、中興、織田信康公の木の下城を社地に移築、城主成瀬氏代々の祈願所でもあり、明治維新の後現在地に御遷座になった。 お城の見学前にお参り下さいとの看板があり、拝殿は城郭の桐の丸付近で階段状に高い位置にあった。

鳥居を抜けると犬山城登城石段へ

太鼓石橋

犬山城の松の丸付近

拝殿前の展望台
針綱神社鳥居

手水舎

大宰府天満宮の御分霊

針綱神社の拝殿
城の本丸に対して、普通は二の丸、三の丸、西の丸などの呼び名があるが、 犬山城では松の丸、桐の丸、樅の丸、杉の丸、本丸となる。


御神馬像
御神馬石像

犬山城入口

待ちに待った犬山城の歴訪です。丁度9時を過ぎ入口で待っていた人々が先に入り、時間をずらして私達も入城。 お城の規模としては小さいが個人所有のお城としては手入れが行き届き、まわりの景観も素晴らしい。
犬山城は1537年、織田信長の叔父である織田信康によって築城され、尾張と美濃の国境に位置するため、戦国時代を通じて国盗りの要所となった。 城主はめまぐるしく変わり、戦国時代の小牧、長久手の合戦では羽柴秀吉が12万の大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る徳川家康と直接対決をした。

濠跡に架かる赤い橋

矢来門跡

登城道は針綱神社拝殿横を通る

右手に杉の丸、左手に樅の丸

本丸門の手前に岩坂門跡
中御門跡

松の丸門跡

黒門跡

本丸門

右手の案内所で入城料を支払う

登城道最後の本丸門は外側が鉄で防御されていたので鉄門とも云われ、その跡がある。 現在の本丸門は旧門とは関係なく近年造られた。 犬山城天守は三層五階の望楼式で、間近に見る天守もいい姿をしている。 城主成瀬正肥公は幕末の難しい国政の時、尾張藩主徳川慶勝公を助け、勤王の立場で諸問題を解決した。その功績で成瀬正肥公の石碑がある。

鉄門跡





天守と付櫓が優美
本丸へ

模擬隅櫓

旅情感を満喫

城主成瀬正肥公の石碑

七曲門付近は、当時の石垣がそのまま残り、下方は木曽川畔に下る城の水の手口にあたる。 まさに歴史を物語る石垣群です。 御神木の杉の木は数百年の風雪に耐えてきたが、現在は枯死している。 しかし囲いをして保存に努めている。

七曲門付近





七曲門方向


御神木



天守入口はテント

明治4年、廃藩置県により政府に没収されたが、同28年、旧藩主成瀬正肥氏が城を修理するという名目で譲り受け、保存をはかってきた。 現在も、12代目当主が城の所有者であり、個人所有の城は全国でも唯一のもので、財団法人犬山城白帝文庫を設立して保存に力を入れている。
入口でカメラの三脚を預け(中は狭く階段や壁にぶつかり傷ができるのを防ぐ為)、靴をビニールに入れて入城。 城は三重四階、及び地下二階の構造で入口は地下二階から入る。 内部は天井が低く、階段は急で戦国時代のお城を実感する。

入口

地下2階から地下1階へ…
地下は太い柱が筋交いで補強

地下1階

一階は上段の間、武者隠しの間、納戸の間がある。 武者走りには当時の武具や遺品が展示。 中央の鬼瓦は築城当時のもので、慶応年間に修復した時の実物が保存。 一階の中央に城主の居間、納戸の間がある。 居間は床が高く畳が敷き詰められ、床、違い棚が設けられた書院造りの間です。 居間、納戸の間の周囲は武者走りの広い板の間がある。





中央は築城当時の鬼瓦

城主の居間





城主の居間

警護する武士の詰所


二階は、当時は武具の間といわれ、武者走りには何もなく、磨き上げられた板の間が目に付いて天守の時下の姿を見れます。 国宝5城、現存7天守。合せて、現存12天守と、日本100名城が掲示してある。









三階は破風の間で、唐破風は元和〜貞享の70余年の間に、成瀬城主が増築したといわれる。 南北に唐破風、東西に千鳥羽破風が設けてある。 三階の破風の間の広さは28畳で増築した部分を足すと一回り広くなる。


千鳥羽破風の天井
三階、破風の間

最上階へ

高覧の間の広さは三階と同じ28畳ほどの広さで、四方に出入口がある。 回廊は成瀬公による増築とされ、高欄と廻縁がまわる望楼で素晴らしい眺望です。 どの方向も眺めがよく、特に木曽川の眺望は素晴らしい。 お城の位置が当時の戦国時代に各勢力によって入れ替わり、濃尾の要所だった事がわかる。 一般の天守は事故防止に金網があるが、ここは当時のままで天守の回廊を歩く時、注意が必要です。

天守から本丸内を







天守から木曽川の眺望





国宝指定書のコピー

天守から本丸門へ
妻と顔を見合わせて、お互い納得をした犬山城の歴訪で東京に帰ります。 当面の目標は現存12天守のお城めぐり、機会を見つけて出かけます。
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