■ 越後 浦佐毘沙門堂 ■

普光寺は、もとは毘沙門天を祀るお堂の別当寺として建てられたと見られ、毘沙門堂は807年(大同2年)に坂上田村麻呂の開基により創建されたと云う。 戦国時代には上杉謙信や上杉景勝が訪れ、彼らの文書が残されている。 江戸時代には、この地の領主の帰依を得て寺領を与えられ、江戸幕府からは朱印状を与えられていた。 尚、江戸時代には古義真言宗(醍醐派)に属していたが、明治に入り新義真言宗(豊山派)になった。


民宿を朝7時に出発し、途中コンビニによって朝食をした。 10km先の浦佐駅に到着するも天気予報通り強い雨足です。 駅前の商店街に毘沙門堂はあり、入口は狭いが天地人の旗ですぐ判った。

商店街の路地から毘沙門堂へ 川筋を挟んで山門が…

川筋は交差して中央の地に「毘」の花文字が印象的です。 石畳から見上げると、扁額に吉祥山の山号がある仁王門が立派です。 仁王門は1831年(天保2年)、地元の関市四郎氏(酒造業や物流)の寄進で、棟梁は六日町の宮大工内藤藤蔵です。 内藤家は越前から坂戸城主として移封された堀直寄に従い魚沼に移り、坂戸城の建築に従事した宮大工です。 さらに日光にも行き陽明門を手本に総けやき、豪雪にも、耐震にも耐える建築をした。






仁王門の天井の双龍図板絵は文晁師が願い出て、関市四郎氏がこれを許して書いたものです。 その双龍図板絵は八方睨みの龍と云われ、平成9年に修復された。 それを薄暗い雨中の中、何枚も撮影した。



楼門の説明板


普光寺本堂

仁王門をくぐると右手に大きな神木と鐘楼があり、古山門まで続く、廊下といわれる石畳が続き、真言宗豊山派総本山長谷寺を思い出した。
残念な事に浦佐毘沙門堂は室町前期の建築と言われ、大正6年、国の特別保護建造物に指定されたが、昭和6年、国家的財産も炎上に帰した。 その後再建に着手し現在の御堂が完成したと知り大変残念な思いだ!
この雨中の中、宝物殿、毘沙門堂の良い映像が撮れない。

神木と鐘楼

宝物殿
廊下と石畳

毘沙門堂

宝物殿には中央に主大日如来像が安置され、その四隅に東西南北の方角を護持する四天王像が配置されている。 仏教の守護神である持国天、増長天、広目天、多聞天から成り、立体曼荼羅を形成する。 その中で多聞天は毘沙門天とも云う。
古山門のそばに不動明王石像があり、この不動明王は石像仏としては日本最大といい、明治初年に六日町の石工富八郎によって造られた。

宝物殿

不動明王
古山門

毘沙門堂

雨足が強いが廊下のおかげで撮影するのに助かった。 仁王門から廊下と石畳が古山門まで続く、古山門は一番古い建造物で聖徳太子の扁額があり、家康の十六男、松平忠輝の寄進で大黒天と愛染明王が祀られている。

浦佐毘沙門堂

仁王門から廊下で一直線の所にある古山門
境内

仁王門と廊下

仁王門から廊下の石畳、毘沙門堂、宝物殿、普光寺とすべて廊下でつながり、境内の各方向を撮影し仁王門まで戻った。

毘沙門堂

普光寺の石碑

寺宝館(左)と普光寺本堂
宝印塔

普光寺本堂

毘沙門堂

浦佐毘沙門堂を出ると浦佐城址の案内があった。 本来ならば行ってみるところですが、この雨では無理で今回はパスした。 この案内で判断すると浦佐城址の町造りがよくわかる。 浦佐城址の大手口には普光寺、大悲山千手院、そして川筋が濠の役割をしている。





大悲山千手院の入口


普光寺と川筋を挟んで大悲山千手院があり、向かった。 真言宗豊山派のお寺で、奈良の長谷寺が総本山です。 浦佐毘沙門堂の塔頭寺院の1つで、ご本尊の千手観世音菩薩と共に薬師如来(秘仏)を祀る。 雨中の撮影は傘を差しながらでうまく撮影できない。 そして境内も十分に観察できなかった。

8時過ぎ
大悲山千手院





浦佐にいる間は雨足が強かったが、この後、六日町まで戻る途中から薄曇になり、天地人博も見れそう。 その前に坂戸城址の入口にある、濠の側で地元の人達が御茶屋を開いているので、情報を集めに寄ってみる。

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