■ 現存12城 天守、郷土資料館、搦め手門へ ■

城づくりの名人、藤堂高虎によって400年ほど前に築城された宇和島城は均整の取れた美しい姿から別名、鶴島城とも言われ、 宇和島市民のシンボルとなり市内中央に鎮座してる。
当初、藤堂高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、 寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に 伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型三重三階に建て替えられた。


本丸に入り40m程進むと天守の全景が見える。 近づくと樹木が邪魔をするので手前で撮影。 1860年、1960年と100年ごとに大修理を受けている。 伊達家の時代の石垣上に建築された装飾性の高い破風や懸魚などから太平の世を象徴している。 天守を一回り、小さいながらも格式を重んじた御殿建築です。

本丸天守








時々観光客を見かけるが、午後の非常に暑い時間帯で観光客は少ない。 木造建築の優美な姿を鑑賞できて良かった。 天守内部に入ると1階には、天守の骨格の模型が中央部に展示され木造建築の参考になる。 1階の廊下は幅が広く天井も高く想像以上です。

天守真正面

天守の骨格の模型



1階の回廊


2階へは二つに折れた階段で、天井の高さを知ることができます。 2階には展示物はなく、全体の広さを実感できる。 また廻廊の広さは1階に比較して半分ほどで各地の名城の写真が展示、 また白蟻による建造物の被害の部分や当時の看板などが展示してある。

2階への階段

3階への登り口は急な階段

白蟻による建造物の被害状況
2階の中央の部屋

2階の回廊

当時の城郭の看板

最上階は飾りっけのない部屋ですが、当時の様子が実感できる。 武者窓からは宇和島市内が一望でき、天気がいいので景観が素晴らしい、四方を撮影。 城郭の樹木が長い年月の成長で、鬱蒼と生い茂り、苔むした石垣群とマッチしている。

3階最上階








現在見られる天守などの建築は伊達氏によるものだが、 縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が残る。 五角形平面の縄張りは四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、 現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記された。 城を囲む五角形の内濠は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は内濠も海も埋め立てられ残念です。

本丸の隣りの藤兵衛丸にある城山郷土館へ 城山郷土資料館の入口

この資料館は元々、三の丸(私達の車両を駐車した所)にあったものを移築した。 昭和41年、伊達家から譲渡され、城山内に移築され、郷土館として一般公開している。 受付で記帳を頼まれ、私達だけだったので案内の方が説明してくれた。 触れない事を云われ、カメラは許可です。 民俗資料や宇和島城の古写真などが展示してある。 他に明治、大正時代のもあり、郷土の雰囲気も感じる。 郷土資料の事だけでなく宇和島の自然の豊かさも教えて貰う。

和太鼓

昔の生活用具

駕篭







修復された木造資料館
身分の高い人が乗る駕篭

昔の商屋の帳場

人力車







本丸の隣りの藤兵衛丸

再び城郭内の散策に…。案内図で長門丸といわれる方向へ、そして宇和島城の搦め手口まで下りて行く。 雷門跡は城番屋敷(城山郷土館)への入口門で、ここを下りていく。 ここからは振り返りながら撮影する事が多くなる。ちょっと違和感があるかも。 藤兵衛丸(城山郷土資料館)から、上り立ち門(搦め手口)まで緩やかな下り坂が続く。

雷門跡は城番屋敷(城山郷土館)への入口門

長門丸から雷門跡方向

雷門跡を下りて

下から見上げた雷門跡


石垣には鬱蒼と生い茂った草木が見られ、弓矢の材料になる竹林も広い範囲で生い茂っている。 代右衛門丸と式部丸と呼ばれる所の下方を通る。
この上が代右衛門丸



この上が式部丸で井戸がある

城郭の案内図

上り立ち門(搦め手口)

宇和島城に限らず、多くの市民がジョギングや散策路として楽しんでいる。 城内の散策は体力造りに励み、体操着がびっしょり汗で濡れている。 私達も汗まみれになったが、水分補給をしながら楽しい歴訪になった。 駐車場まで城郭の外側の道路を周遊したが、鬱蒼と生い茂った林に遮られて、本丸天守は見れない。

宇和島では旅情きらめく四国の終着駅と書かれたパンフレットがあり、 歴史、海の自然、山の自然、文化、特産品と観光地として最高です。 今回の旅のプランは妻が四万十川の川下りをぜひ体験したいと希望があり、 休憩後は一路、四万十川へ向かう。

上り立ち門(搦め手口)
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