■ 宮島町並み散策と大願寺、大聖院と滝小路 ■

厳島神社の裏手を流れる御手洗川によって運び出された土砂や浜辺に堆積した砂を築固め、 江戸時代以降、徐々に延びたのが、西の松原と呼ばれる突堤で、この先に清盛神社がある。
清盛神社に参拝している歴女がいたので、終わるまで待ちました。 最近はメディアで若い女性が歴史認識に強い興味を持っていると報じている。


清盛神社は平清盛の没後770年を記念し、延長された西の松原に清盛を祭神とする清盛神社が創建された。 昭和29年の比較的最近の創建です。 清盛神社からも大鳥居がいい角度で見れました。また反対側の御手洗川の川辺では鹿を発見! 西松原から宮島の街中を周遊して大願寺まで散策。 古い町並みは長い歴史が漂う感じで、立ち寄りながらの散策です。 また大願寺が厳島神社への多大な貢献をしているのが判り、歴史の再認識として大いに勉強になった。

西の松原からの大鳥居



御手洗川

清盛神社


此処からは古い町並みの散策になる。 宮島水族館は工事中で此処からUターンし大願寺方向に戻る。 古い町並みには宮島歴史民族資料館(入館料300円)や宮島杓子の工房などがあり、 工房で杓子を購入しようと店内に声を掛けたが、何度呼びかけてもお店の人は出てこない。…残念!
古い町並み



宮島歴史民族資料館

■大願寺…平清盛の造営した厳島神社は寝殿造りの美しさと、先人の知恵が込められている。 その厳島神社も、室町時代中期から戦国時代にかけての時期は全国の神社同様に凋落した。 その際、強力な後ろ盾になったのが大願時です。 明治時代の廃仏毀釈まで厳島神社の修理を担った古寺です。 厳島神社の衰退時、当時の大願寺の聖人は全国行脚で寄付を募り、縮小や没落を余儀なくされた多くの神社とは異なり、 厳島神社は現在も創建時の規模を保つことができた。と書かれてありました。

神仏習合…土着の信仰と仏教信仰を合せ、一つの信仰体系として習合することで、日本では神祇信仰と仏教との間に起こった。
神仏分離令…神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる。

厳島神社の宝物館

大願寺の山門
厳島神社と大願寺の間の御手洗川

境内中央に池庭

■大願寺…亀居山方光院大願寺で真言宗の古刹。 明治の神仏分離令までは厳島神社の普請奉行として寺院の修理、造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などの厳島伽藍の中心でした。 神仏分離令によって厳島神社からは厳島弁財天を、宮島最古の木造薬師如来像、千畳閣の本尊の木造釈迦如来坐像、 その両脇の阿難尊者像、迦葉尊者像、五重塔本尊の三尊像、多宝塔本尊の薬師如来像、 護摩堂本尊の如意輪観世音菩薩など多くの国重要文化財を収蔵している。

明治の神仏分離令をきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。 明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図し、一部の国学者主導のもと仏教は外来の宗教であるとして、 それまで特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。 その後、神仏分離令で損失した護摩堂が再建された。…堂内は撮影禁止。

大道芸のお猿さん

大願寺の本堂
大願寺本堂

護摩堂
■廃仏毀釈…仏教寺院、仏像、経巻を破毀し、僧尼や寺院が受けていた特権を廃止し、仏教施設の破壊などを指す。 神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、 結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。 …これにより多くの文化財が消失した事は非常に残念に思う。
首相伊藤博文が訪問時に植樹の九本松 池庭に厳島、龍神

という訳で、後半は大願寺に訪問し歴史を学ぶ。 時間は午後4時。この後の予定は厳島神社の宝物館横の脇道を通り大聖院へ向かう。 古い町並みを散策しながら、途中、多宝塔にも寄りたいと思う。

大聖院へは滝小路を歩く。 大聖院真言宗御室派の大本山の寺院で、正式名は多喜山大聖院水精寺。 宮島で最古の歴史を持つ寺院で、厳島神社の別当寺として祭祀を司り、社僧を統括してきた寺院であす。 明治20年(1887年)の火災で大部分の堂宇を焼失し、現在ある堂宇はその後整備されたものである。
多宝塔を探しながら歩いているうちに、白糸川に架かる赤い欄干の橋が見えてきた。 どこかで多宝塔を見逃したか、小道を間違えたか…

歴史を体感

欄干の橋から大聖院仁王門


仁王門の入口手前で白糸川を渡り境内に、仁王門に入ると、いきなり石段が…、 中央の手すりには、お経を記した回転するものがあり、それを回しながら石段を登ると、お経を読んだ事になる。 ゆっくり、一歩一歩、石段を登った所には、唐破風造り檜皮葺の御成門が迎えてくれる。 奥へ細長い境内で弥山へ向かって堂宇が続く感じです。

仁王門

御成門

観音堂(十一面観世音菩薩)


右に観音堂

勅願堂

勅願堂は大聖院の本堂で鳥羽天皇勅願道場です。本尊の波切不動明王が祀られている。 観音堂の全景を撮影し勅願堂の横に大師堂への石段がある。 大師堂へ登る石段の途中、左手に八角万福堂、右手に阿弥陀堂があった。
八角万福堂は宮島七福神として、恵比須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊の七体の福徳の神が祀られている。 阿弥陀堂は弥山本堂に祀られていた薬師如来と十二神将が祀られている。
大師堂は大聖院本坊最古の建物で、真言宗の開祖弘法大師空海が祀られている。

観音堂

八角万福堂

大師堂


阿弥陀堂

大師堂から見晴らしが良い
大師堂から左上方に摩尼殿を見れる。大師堂で参拝してから地下の遍照窟へ向かった。
遍照窟は四国八十八ヶ所霊場の本尊が安置され、それぞれの本尊前に各霊場のお砂が埋めてあり、四国を遍路したのと同じ功徳がある。
摩尼殿

大師堂の地下にある遍照窟の入口


■大聖院…厳島神社の後背に本坊があり、仁王門、御成門、勅願堂、観音堂、摩尼殿、大師堂、霊宝館など多くの堂宇がある。 特に、大師堂地下に人工洞窟の遍照窟があり、四国八十八ヶ所霊場の砂を敷いた砂踏み道場になっていた。 境内には至るところに小仏像が祀られ独特の景観です。 また、弥山山頂付近の弥山本堂、霊火堂、三鬼堂は大聖院所属の堂宇です。

遍照窟の入口には悟りを得るための心を表すお地蔵さんがある。 「キビキビ地蔵…精進」、「ニッコリ地蔵…忍耐」、「アリガトウ地蔵…布施」、「ドウゾ地蔵…智恵」など、どれも可愛らしいお地蔵さん達です。 そして遍照窟の中では神聖な気分になり、さすがに撮影は遠慮した。そして出口に… 大師堂から石畳の小道を摩尼殿へ向かう。左側には小仏像が祀られている。



八十八ヶ所を一歩一歩


摩尼殿に到着、包丁塚もある。 摩尼殿は弥山三鬼大権現の本坊御祈祷所。摩尼とは福寿とも訳し、幸せをもたらす事で多くの参拝者が訪れる。
摩尼殿にお参りして石段を降りると正面に釈迦涅槃像と十六羅漢が迎えてくれる。 ここでは前にある仏足石の下に、インドの八大仏跡の砂が敷かれ、この仏足石の上にあがりお参りする。と記されている。

勅願堂に戻り下方から見上げた摩尼殿はさらに大きく見えた。 ここの休憩処でお店で販売しているお茶が試飲できる。 薬のような香りがしましたが美味しく飲む事が出来た。

摩尼殿

釈迦涅槃像と十六羅漢(奥)

摩尼殿
包丁塚



休憩処の通話できるクラシックな電話機

…大聖院では多くの堂宇を見学できた。これら多くの堂宇が火災で焼失した事は残念です。

滝小路…厳島神社から大聖院への緩やかな坂道は滝小路と呼ばれ、厳島神社の神職の居住地でした、上卿などの社家や宿坊が軒を連ねている。 今でもこの滝小路には神職関係者の住居があり、独特の街並みが見られる。 石垣の上に建つ上卿屋敷は、江戸時代の神職の屋敷で、当時のままの建築様式を残す貴重な建築物です。 大聖院から滝小路の景観を撮影しながら厳島神社へ向かう。

途中、厳島合戦の史跡…滝小路の戦い…毛利軍の奇襲を受けた陶軍の弘中隆包武将は吉川元春武将と戦い敗れ大聖院から退いた歴史を学んだ。
上卿屋敷(林家住宅)は元禄時代の建築で国の重要文化財で屋敷割や石垣、庭園が最良の状態で保存。

滝小路

上卿屋敷(林家住宅)

滝小路の終わりは御手洗川
厳島合戦の史跡



此処から厳島神社の本社本宮から大鳥居まで
この後は再び、厳島神社へ戻り、夕方の景観を撮影、散策する。 現在午後5時です。夕陽が迫る時間で、帰りのフェリーの時間も気になるが…
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