■ 平泉中尊寺…表参道から本堂へ ■

花巻市を早朝6時に出発して456号線の畑の中を走行。 途中コンビニで朝食を買い入れ、時々農家の軽トラックを見かけるくらいのガラガラの道をノンストップで走った。 平泉中尊寺に到着したのが7時過ぎで第1駐車場は満車で。 仕方なく第2駐車場へ…ここは難なく駐車できた。 連休で藤原祭りが行われているから車両の数も多いです。 第2駐車場から平泉町内の4号線を越えて中尊寺に向かう。


入口から中尊寺への登り坂を月見坂といわれ実質表参道になる。 参拝客はグループが多く、間隔があり誰もいない時が撮影のチャンス!


中尊寺の登り口

両側の杉は江戸時代に伊達藩正宗公が植林
第2駐車場そばの平泉文化史館は桜が満開

月見坂

八幡堂への分かれ道

月見坂を登って最初の堂宇、八幡堂が坂の途中にある。 八幡堂の創建は天喜5年(1057年)鎮守府将軍の源頼義安倍氏を討つ為、この地で戦勝祈願した事が始まりとされる。 明治初頭に発令された神仏分離令により、八幡神社から八幡堂となり本尊を阿弥陀如来尊像としている。

八幡堂

お参りして月見坂に合流


絵地図の中尊寺の案内図で暫く歩くと弁慶堂がある。 ここでは多くの参拝客が、それ程大きくない堂宇の周囲に群がっていて大賑わいです。 弁慶は現代でも人気者のようです。 堂宇の中を拝見すると所狭しに武蔵坊弁慶に関するものが保管されている。

弁慶堂…中尊寺の参道沿いにある堂宇で入母屋の金属板葺きの屋根で、かなり細かい彫刻が施されている。 案内板では「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826年)の再建。 藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。 弁慶像は文治5年(1189年)高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し、 衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり、更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」と記されている。
月見坂に戻ると東物見台休憩所があり、ここからは朝もやに霞む平泉町の一帯が展望できる。

弁慶堂

東物見台休憩所
弁慶堂内

参道に朝日が射す

弁慶堂の先に地蔵院と地蔵堂が両側にあるが、早朝ゆえまだ開いていない。 ほとんどの人が素通り、時間を確認するとまだ7時40分で。 第1駐車場で藤原祭りが行われるから、その前に参拝をすませようと人の流れが多くなってきた。
案内板に薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。 その旧跡は現在の所ではなく他に建立されたが明暦3年(1657年)に現在地に建立された。 堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。 …(中略)この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心に広まり、 特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。
月見坂の左側に薬師堂と観音堂が並んでいる。観音堂の観音像は帰りに撮影

地蔵堂



観音堂
地蔵院

薬師堂

観音像(復路に撮影)

月見坂の坂を登りきった右側に中尊寺本堂がある。 山門で多くの人が順番に記念撮影するため時間を要した。 中尊寺本堂の看板の前で記念撮影は人間の心理、私達は同世代の夫婦に声を掛け、お互いに撮影。

中尊寺本堂は中尊寺の中心となる施設で規模は最大。 奥州藤原氏が亡ぶと次第に勢いも無くなり、建武4年(1337年)には火災により多くの堂宇と共に本堂も焼失した。 その後、伊達藩の庇護の元、多くの建物が再建され、比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」や様々な儀式などが執り行われている。

中尊寺は、この山域全体の総称であり、本堂は一山の中心となる建物で明治42年(1909年)に再建された。
境内の奥には池のある小さな庭園があり寺務所を通ると出口門がある。

中尊寺本堂前

本堂前の松

本堂

中尊寺本堂山門

中尊寺本堂

鐘楼

本堂脇門

朝の8時ですが、多くの人が月見坂を登ってきました。 人が数珠繋がりの様になり途切れない。 本堂を見学して小休憩したいのですが追い越されて、この先渋滞になるのが嫌なので、もう少し進む。 せめて金色堂は混雑状態で見学するのでなく、じっくり見たい。

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