■ 広島城天守と内濠を歩く ■

天守は連結式と呼ばれ複合連結式ともいい、大天守から渡櫓で2つの小天守を南と東に連結するものであった。 望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、 屋根には金箔瓦が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであった。 最初の映像は天守閣見学後に戻ったら誰もいなかったのでチャンスと思い、駆け足でポイントを見つけ撮影したものです。


天守に誰もいない時期があり待望の一枚を撮影できた。 広島城の構造について毛利輝元による城の築城の過程、関が原以降の広島藩の成立から幕末に至るまでが映像や資料、模型などで展示してある。 甲冑や刀剣などが常設展示されています。撮影したら禁止と言われ慌てて中止!

待望の一枚を撮影



入口に石垣が組まれ展示




ここから撮影可です! 同じ常設展示ですが武家屋敷や城下町のくらしが再現されている。 複製ですが広島城下絵屏風を良く見ると当時のくらしの状況が良く判る。 天守閣の金箔瓦が複製再現してあり、武家が使用していた駕篭は結構古いものです。 別のコーナーでは城下の商家が再現され、くらしの様子が判ります。 庶民のお祭りのコーナーは鮮やかな色彩の飾り物が…

武家屋敷玄関

広島城下絵屏風

天守閣の金箔瓦(複製再現)

食事処

庶民のお祭りのコーナー

武家屋敷

武家屋敷



商店

武家の駕篭


…毛利家の当主、 毛利輝元は交通の要衝である広島、太田川三角州に築城を開始し、 1559年に完成した天守閣からの展望は輝元はどのように思ったでしょうか? 周りを尼子氏、大内氏の強力な戦国大名に囲まれ、弱小な土豪から起ちあがり中国地方の覇者になった。 これから天下を取るか永年を家名を存続させるかであなたならどうしますか? 自分だけでなく、多くの家族や家臣を従えて輝元はこの天守閣からどのような気持ちで眺めたのか!

北側の展望

南側の展望

旧広島市民球場、原爆ドームの頭が見る

最上階は展望室で市内全域見ることが出来る。今日は天候もまずまずで、多少霞んではいますが見晴らしは良いです。 連格式天守閣の特徴で本丸内の景観の眺めが良く、緑に包まれた城郭内が美しく映えている。 天守の最上階南側で望遠で原爆ドームの上部が視認できた。

南東の展望

南側の展望

天守直下の展望


華頭窓

広島城内濠を歩きます。 浅野藩政時代の広島城は内堀、中堀、外堀のある約1km四方の広大な城だったが、明治維新後には1911年(明治44年)に外堀が埋められ、 さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められ現在の規模になった。広島市内の八丁堀、薬研堀などの地名は堀があった名残です。 八丁堀は約8丁(約880m)あった東側の外堀で縮景園は元々城内だった。
天守閣を見学し裏御門から出て、お濠端を散策します。 木陰で一休みした樹が原爆で被爆した樹で、今ではここまで再生したのを見て触って感激した。 搦手門にあたる裏御門からは現在車両が出入りできる。

被爆樹木 クルガネモチ(爆心地から910m)

裏御門(搦手門)


裏御門跡から南側の石垣

三子教訓状…毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)に書いた文書で、 この文書は三矢の教えとしても有名である。 「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れない、3人共々結束すること」という有名な三本の矢の逸話は、 この三子教訓状がもとになって作られたと言われている。(尚、三本の矢の逸話は三子教訓状に記載がない) ちなみに自分の3人の息子に話して聞かせたが…

裏御門跡からお城を左回りでお濠端を散策。 お濠端にも被爆樹木があった。 クスノキで爆心地から1120mで、途中で折れ曲がっているが被爆の影響と記されていた。

裏御門から北側の石垣

被爆樹木クスノキ

天守閣
天守閣

裏御門の通路

週末の金曜日でお昼時間は近くの会社からサラリーマン達が周回道路をジョギングしたり、キャッチボールなどをして昼休みを楽しんでいた。 天守閣を色々な角度で撮影。 お濠の幅が非常に広く、石垣が低いとはいえ、城郭の美しさが際立つ。 ビル群が映らないように工夫しお濠端を半周して小公園の畔まで来た。







濠の幅を強調した映像






半日の広島城の歴史巡りは一段落した。 原爆投下で地域全体が跡かたもなく焼失した後から現在の広島が復興した。 歴史的建造物はないが、書物や人の心の中に今も脈々と語り継がれている広島がある。 午後の予定は原爆記念館へ足を運んで見たい。

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