■ 岡山後楽園 ■

豊臣五大老の一人、岡山藩主の宇喜多秀家が旭川の流域にあった岡山という小高い山を利用し築城した岡山城。 この時、旭川を城、城下町の防御を固めるため堀の替わりとして、旭川の流路を東へ曲げ城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えた。 これで城と城下町の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになる。


唯心山から下りて残りのコースを散策開始! 中の島の小橋の処に来たら、島には入れませんでした。…残念! 小橋の両端に手入れの生き届いた美しい形の松、そして屋形船を係留してある茅葺の屋根が情緒を見せてくれる。 お休み処の屋根も自然な形で日陰を作ってくれた。 慈眼堂は池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀ったが現在は空堂です。 境内には花崗岩を36個に割って組み上げた烏帽子岩や門、そして板張の腰掛などが残っている。

手前は小川

美しい形の松

自然の日陰

烏帽子岩
中の島の小橋は渡れない…残念!

屋形船の屋根

慈眼堂

慈眼堂

この付近に来ると庭園と岡山城の映像が映える。 井田から岡山城を撮影!ビルなど見えないのがミソ! 茶畑は築庭当時から背景の緩やかな堤の処にあり、江戸時代にはここで作られた葉茶は藩主が普段、飲むお茶として使われた。 さらに唯心山を入れて岡山城を撮影! とても岡山市内にいるとは思えないような景観を楽しむ事ができます。さすが日本三大名庭園!



茶畑

津田永忠遺績之碑

五十三次腰掛茶屋


小橋と屋形船

唯心山と岡山城

最後にあの屋敷に向かう

観騎亭は園内北に位置する馬場に面して建っている。 江戸時代には家臣が馬術の上達ぶりを藩主の前で披露する行事があり、藩主はこの建物からその様子を眺めた。 歴史をたどりながら池のほとりを散策。 川の流れや後楽園の役目もすべて天守閣本丸を防備するため。 その意図を探りながら散策。

観騎亭から庭園を…

観騎亭


郭沫若氏の詩碑…詩の大意は日本の留学時代が懐かしい後楽園も戦災で城を失い。 今の眺めは寂しい限り、せめて鶴を立たせ良き伴侶としたい。 というもので昭和31年に氏のはからいで中国から丹頂2羽が送られた。
延養亭は藩主の居間で、園内で主要建物だが戦災で焼失。昭和35年に当時の状況に復元。 延養亭は園内が一望できるよう建てられ歴代の藩主もこの景観をお茶を飲みながら客人と楽しんだのではないか!

郭沫若氏の詩碑

延養亭





鶴鳴館




■御船入跡…藩主が城から舟で渡った時の船着き場の跡で御成御門もあった。 大正時代に後楽園の外周に遊歩道を造った為今は水が入ることなく竹林に囲まれている。
■茂松庵…築庭当時、この辺りは山桜や楓、松で彩られた林で建物は花葉軒と呼ばれ歴代藩主はここで茶を楽しんだ。 明治時代になり茂松庵と名が変わり、戦災で焼失後、園内で最初に復元された。

花葉池には大輪の白い花を咲かせる蓮の一天四海(大蓮花)が夏に見頃となる。 池には園内の曲水と沢の池から滝の石組の中に導かれた水がこの池に流れてくる。 花葉池と茂松庵を一回りし再び芝生一面のそばにある沢の池に戻ってきた。 対岸の景観も美しく夕方になり閉園の放送が流れた。



茂松庵

大立石と花葉池

大立石
御船入跡

栄唱橋

もうすぐ蓮が開花

御野島と釣殿

大立石は巨大な花崗岩を九十数個に割り、元の形に組み上げたもの。
平四郎の松は庭園の出入口の傍にあり初代の松は樹齢300年近い大木でしたが、枯れ死の為、二代目を植樹した。 後楽園を造る前に、この付近に住む平四郎という名の家の庭先にあった松を残したと云われている。
鶴鳴館本館は山口県岩国市の吉川邸を移築。

中の島



鶴鳴館本館

中の島 島茶屋



平四郎の松

戦災で失ったものが、岡山にも有り非常に残念に思った。 後楽園の見治めをし表門に向かう。 平四郎の松と鶴鳴館本館が表門の最後の見治めです。
これから東京に向かって長〜い、長〜い道中がスタート。 義母へ親孝行しその笑顔もまた来てね!の声で喜びが増す。

約750qの道程を安全運転で帰ります。 岡山を夕方6時頃に出発、自宅には朝方4時頃の到着でした。 燃費は13.2q/Lで経済運転をした。

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