◆大手門から二の丸櫓門へ◆  山登りが終わったという安堵感と、これから400年前の山城を見れるという期待感が膨らみます。自然の岩盤の上に築かれ、そして外敵の侵入に備えて峻険に聳える高石垣、この堅固さは圧巻です! ただただ、感動ものです。

大手門の石垣跡前に立ち瞑想してみます。石垣上には大手門櫓が建ち、行く手に立ち塞がるような城郭が出現しました。










大手門を入ると内枡形構造で、周囲をさらに巨大な石垣が囲み外敵の侵入を防ぐ構造になっています。










大手門内側には、上番所、下番所とあり、城郭の正面の守りの強さが窺えます。



  石垣崩落の危険性…
   大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上にのる厩曲輪石垣は圧巻ですが、巨岩の割れ目に侵入した樹木の成長
   により、割れ目が次第に大きくなっています。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩がズレを生じている。これらの影響
   で上部の石垣が変形しつつあり、将来、崩落する危険を孕んでいる。

歴史ある、これらの石垣が崩落しないように対策を立てて、後世に残して欲しいものです。












400年前に、当時の土木技術で自然の岩盤に更に石垣を積み堅固な城郭を造ったものだと感心します。








  鎌倉時代から戦国時代の備中松山城…
   仁治元年(1240年)、備中有漢郷の土豪秋葉重信が地頭となり、大松山に最初の城を築いた。元弘年間、高橋宗康
   が小松山まで城を拡張した。時代と共に城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には
   大松山、小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏
   から離反し織田信長に寝返った。その後、三村氏と毛利氏の争いが続く…備中兵乱
   備中松山城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となる。

三の平櫓東土塀
(重要文化財)…
土塀全体が重要文化財でなく、一部は復元したものです。

三の平櫓東土塀(重要文化財)


二の平櫓跡…大手門櫓から続いている櫓。

三の平櫓東土塀の処から高石垣群を撮影してみました。此処からでも、まだ見上げているような景観でした。
三の平櫓東土塀(重要文化財)


三の丸の迫力ある高石垣群

 



   三の丸から二の丸への登り坂の景観です。ここで三の丸の曲輪の景観も撮影してみます。三の丸は結構広く、足軽
   番所跡や上番所跡、三の平櫓跡などが点在していて、大手口の防備を二重に固めている配置でした。
   大軍の毛利勢が攻め落とせなかったといわれています。

 
三の丸の景観


三の平櫓跡

黒門跡への登城口です。二の丸へは曲がった石段を登っていきます。





黒門跡の手前右手に厩曲輪への入口があります。



黒門跡が見えてきた。

  備中兵乱 天正2年(1574年)…
   備中の戦国大名三村元親と毛利氏、宇喜多氏による戦いで、戦国時代の備中は土豪が入り乱れ、大内氏や尼子氏
   が地元の土豪を抱き込んで覇権を争っていた。三村氏も尼子氏と対立する大内氏を倒した毛利氏と結び、家親の代に
   拠点を備中松山城へ移した。

   永禄9年、三村元親の父、三村家親は備前の宇喜多直家によって暗殺された。翌年、三村元親は父の弔い合戦として、
   備前に進攻し明禅寺合戦が行われたが、三村元親は待ちかまえていた宇喜多直家に敗れた。

   三村氏と宇喜多氏は対立していたが、両者とも毛利氏に属し、毛利氏の小早川隆景はに宇喜多直家寄りで、毛利氏の
   吉川元春は三村元親寄りで、毛利氏配下の戦国大名の関係の複雑さが浮き出ている。

   宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は、義憤を以って毛利氏に見切りをつけて、親類と離反し、当時の覇者織田信長に
   ついた事により、毛利、宇喜多軍との戦いになり、奮戦むなしく破れた。…備中兵乱
   吉川元春は「義を通さぬ毛利家の将来は暗い」と嘆いたと言われる。

   元春の危惧はこの備中兵乱の数年後に宇喜多直家が織田方に寝返ったことにより現実化する。そして関ヶ原の戦いで
   宇喜多軍は西軍主力として、吉川元春は毛利家の安泰の為、戦いでは陣を動かさなかった。

 
厩曲輪入口




   厩曲輪は上方が二の丸があり、下方には三の丸があり、それ程広いエリアではないが、視界がよく見渡せます。
   また奥には重要文化財の土塀が修復されていました。 大手門から主要な撮影ポイントを見続けてきて強い日差しを
   避ける意味で、此処の日陰は小休憩には丁度良く石段に腰掛けてしまった。

 
厩曲輪




   小休憩を済ませ、先に進みます。黒門跡は長い石段の中腹にあり、ここだけ1間ほどの平坦部分があります。
   映像では石段の両側に四角い四方の大き目の石があり、ここに門が建っていたと思います。

 
黒門跡


黒門跡の上方の景観

黒門跡を登ると左手に御膳棚曲輪跡があり、現在はトイレが設置されています。



御膳棚曲輪跡

   御膳棚曲輪跡を通過して二の丸手前から右手方向の視界が開けてきました。ここからは厩曲輪、三の丸、三の平櫓
   東土塀、大手門そして高梁市内が見渡す事ができます。

石段を登りきると二の丸櫓門跡前に到着します。この付近も見晴らしが良く、眼下の視界が開けています。



二の丸櫓門跡

 
二の丸櫓門跡からの本丸


与謝野 寛(鉄幹)の句

   二の丸櫓門跡前で二の丸を覗くと本丸の備中松山城がチラッと見ることが出来ました。はやる心を抑えて二の丸周辺を
   探ると与謝野 寛(鉄幹)の句が石柱に書かれていました。

二の丸入口の石垣は厚く、門跡も角石が大きく門が大きかったことを想像させてくれます。
二の丸櫓門跡




 
二の丸櫓門跡


二の丸櫓門跡から見る本丸

二の丸に入りました。門跡から見る備中松山城本丸は400年前の姿を見せてくれました。WEBで見た映像と実際に見た映像が重なり、嬉しさがこみ上げてきました。
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