■ 二の丸から本丸郭内へ ■
次はは二の丸内を探り、後半に本丸内に入る。 櫓門の石垣上に登ると更に下方の視界が開けた。やや霞んでいるが撮影。ベンチがあり休憩や喫煙も出来る。 本丸を様々な角度から撮影。
この案内板の前に立つとセンサーが働き、備中松山城の歴史が放送さ城郭内案内を見ながら聞くと十分理解出来る。 二の丸櫓門跡の石垣から市街地を望むと天守が高い場所にある事が判る。 江戸時代の城としては極めて異例です。そのため政務所として御根小屋(御殿)が麓に建てられた。


備中松山城の要塞化…永禄11年、三村氏の主力の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた時、 宇喜多直家は備中に侵攻し備中松山城を守る諸将は宇喜多側に寝返った。 更に機に乗じて宇喜多勢は周辺の諸城などを攻め落とした。 毛利元就はこれに危惧を感じ備中松山城や諸城を攻撃し、この戦いで備中松山城をようやく奪還した三村元親は備中松山城を大幅に改築し要塞化した。 その名残りが現在の遺構になっている。

アナウンス付きの案内板

二の丸から三の丸を…

二の丸の雪隠(トイレ)遺構
二の丸櫓門跡の石垣

二の丸より市街地を…

雪隠(遺構)

日差しが強く樹木の下で休憩。 そこは雪隠(トイレ)の遺構がある処で複雑な気持ちで水分補給や喫煙をした。 本丸天守の景観はまるで絵葉書を見るようで十分満足した。

二の丸広場

五の平櫓は本丸の南面に位置し隅部分に石落し

六の平櫓石垣の外側に石像が…

五の平櫓から土塀と天守が…
左から、六の平櫓、五の平櫓、天守閣

本丸登城口前の六の平櫓と土塀は復元

本丸登城の石段

この先は搦手口の腰曲輪方向

本丸登城の石段に戻り本丸を目指す。 登りきった処に受付があり入城料金を支払う。 ふいご峠で会った管理員のおじさんにやっと到着したか!と言われ、何処から来たんだ?…東京です。 えっ!わざわざ備中松山城に?…そうです。 現存12城を歴訪してます。…そんな会話のやり取りしながら、備中松山城と高梁市の歴史を教えてもらった。

関ヶ原の戦い以降…寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。 2代勝宗は天和元年(1681年)から天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築で現在の姿となる。 江戸時代の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居、藩の政務を行った。

登城!

五の平櫓の土台の石垣

本丸南御門からの石段の景観

本丸南御門
五の平櫓の石落し

五の平櫓から二の丸の景観



天守 国重文

期待に胸を膨らませて入城。オオー!切り立つ岩の上に石垣が組み合わされ、その上部に二重二階の天守が堂々と聳えていた。 先日見た岡山城に比べるとそれ程大きくは無いが400年の歴史の重みを感じる堂々とした天守です。
復元された六の平櫓は小ぶりの建物です。そばに麦茶が置かれ冷たいものをどうぞと記されてあった。 早速、戴くと冷茶でなく生ぬるかった。それでも麦茶の味がし管理員の好意が有難い。

南御門の左手に…

六の平櫓跡から天守を…

本丸入口の木造本瓦葺き棟門
…六の平櫓跡

復元された六の平櫓

麦茶の無料飲料水

六の平櫓には発堀で出土した当時の物が保管してある。 その一つが釘、瓦で出土した物と同じ物を複製し陳列してある。
明治以降…明治6年(1873年)廃城令が公布され、江戸時代の政務所、御根小屋(御殿)は取り壊された。 また山上の建物は放置され荒廃した。現在、御根小屋の跡地には高梁高校があり、備中松山城は現存12城として残った。 発掘した瓦(右側)と複製した瓦(左側)がある。土塀の複元にも使われている。 天守の土台は岩石の上に石垣が積まれていた。…当時の土木技術で築城した事は、先人の知恵に対して驚嘆に値する事だと思う。
重要文化財の復元の難しさ…復元は想像や希望で復元されるわけでなく、 史実を尊重した本物志向、史実による資料をもとに復元するわけで、 当時の写真、絵図面や当時に記された資料で確証が無ければ重要文化財としての復元はできない。 また工事方法も当時の方法で建築され、当時の釘や材料が使われて出来上がったものが現実味を帯びてくるのです。

六の平櫓の内部

瓦(本物と複製)

切り立つ岩の上に本丸石垣が…

本丸東御門は木造本瓦葺き

岩山の上に石垣、そして天守と…

天守入口の八の平櫓跡
発掘した当時の釘

六の平櫓から本丸を…

本丸への石段

復元された本丸土塀



八の平櫓跡上

いよいよ天守内に入る。 最近は広島城、岡山城ともにコンクリート造りで、味気ない思いがした。 暫くぶりに本物の天守に会えてワクワクします。

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