■ 御深井丸と西之丸、再び本丸へ ■

御深井丸と西之丸の中間で天守閣の全景を撮影し、 いろいろな構図を探しては撮影を続けた。西之丸エリアに入り正門前に到着。 正門前は多くの人だかりで、イベントの時間も迫り観光客が集まってきた。

御深井丸と西之丸の間は外堀が内堀に向かって切れ込んでいる。 そのため本丸を内堀に沿って歩くと、ここだけ道が狭くなる。


西之丸、御深井丸、二之丸、塩蔵、搦手馬出はそれぞれ独立したエリアで、本丸を守る形で取り囲む。 本来ならば国重文の西南隅櫓を見れるが、現在、修復中で残念。

御深井丸



天守閣と小天守を繋ぐ剣塀

西之丸から本丸天守と小天守の石垣






西之丸の正門は、明治43年に、江戸城の三の丸と西の丸を結んでいた蓮池門を移築したが戦災で焼失、再建された。 こうして見ると皇居の櫓門と似ている。 本来、名古屋城の大手筋で、南側に桝形の榎多御門があり、三之丸に繋がっていた。 この後、梅林のエリアを通り正門前の案内板で散策路を確認したら、 御深井丸の奥にも見学場所があった。

早速、今来た道を引き返す。御深井丸には本丸御殿の復元工事の為、木材の加工場があり囲いがあったので、 この先は見学できないと思っていた。加工場を回り込んで奥に行くと、美しい庭園と西北隅櫓が 見えてきた。顔が喜色しているのが自分でも判る。木材加工場の隣には蔵もあった。

西之丸 梅林

御深井丸 南西隅櫓(清洲櫓)
正門

南西隅櫓は清州櫓とも云われ、徳川家康が名古屋城を築城する際、織田信長時代の廃城された那古野城跡に注目し天下普請で築城した。 そして清洲城の櫓が南西隅櫓だと伝わる。



乃木倉庫


白い蔵の前に係員がいて見学を勧められた。 案内板によると、明治初期に建てられた煉瓦造りで旧陸軍の弾薬庫だった。 当時、乃木将軍が赴任していたため、乃木倉庫と呼ばれ、煉瓦の保全のため、白亜塗りにして現在に至る。 大戦時に本丸御殿の障壁画や天井絵類をここに保管したことで名古屋空襲時に被災を免れた。 被災を免れ国重文として私達が見る事ができ後世に伝わる大切な案内でした。



不明門

天守閣の石垣には石落し

御深井丸の南西隅櫓と乃木倉庫の歴史に触れ、再び、本丸に戻った。 剣塀の不明門をくぐり、本丸内に入ると天守閣の石垣には石落しを見れた。

天守閣と小天守の間の通路の石垣には石樋も見られ、当時の築城基準のレベルが高い事が伺える。 本丸の売店で喫煙して休憩した。家族連れやカップルが連休で大賑わいです。 私達はそのまま、本丸内の二之丸に繋がる東二之門へ向かった。 ここは清正石という巨石が石垣に組まれていた。

小天守

天守閣と小天守を繋ぐ石垣にある石樋

修復復元工事中の旧二之丸、東二之門

名古屋城築城にあたり、家康は指名した戦国大名に天下普請の令を出した。 天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正は、巨石の運搬に際し、自ら音頭ををとって木遣りを歌い民衆を鼓舞したと伝わり、二之丸に石碑 が残っているが、実際は各施行区が決まって、大名間の競争の場にしたと云う。 競争というと、いつの世も、他の足を引っ張る行為がある。そのため各施行区には、自分の区間の石垣の要所に、自分の家紋を 刻印したと云われ、それが現在でも確認できる刻印として見れます。ここにある大きな巨石は、信州上田城の真 田石の数倍の大きさでした。この区域は黒田長政の普請区の為、逸話ではないかと伝わります。

名古屋城の歴訪も後半に入り、清正石の処から東南隅櫓、表二之門に向かった。入る時に見なかった城郭の 内側も見学。表二之門は恒久的な移築か、現在修復中の東二之門に戻すのか、興味深いものです。


171pの私以上の高さがある清正石







表二之門の内側

東南隅櫓の入口石段

表二之門の内側

大手馬出跡

表二之門をでて大手馬出跡では大道芸が披露していた。多くの観光客が周囲を取り巻いていた。 妻はいつもの事で、人垣をくぐって一番前に行ってしまった。私は後方から望遠で覗いてみた。 ボールの上に脚立を、その上に不安定ながら乗り、ナイフ投げ、けん玉を披露している。 暫く鑑賞してから妻を探して、名古屋城の歴訪を再開。

inserted by FC2 system